Club Pelican

THEATRE

「兵士の物語」
“The Soldier's Tale”(“L'histoire du Soldat”)
Direction and Choreography: Will Tuckett


第2部(つづき)

兵士(Adam Cooper)が駆け寄って王女(Zenaida Yanowsky)の手にキスをしようとすると、王女はいきなりその手を払う。兵士はスゴスゴと引き下がり、舞台右の椅子に座る。王女は小さな舞台に上って、煙管を手に持ってポーズを取る。ところがオーケストラが突然チューニングを始め、それがなかなか終わらない。王女は笑顔を崩さず、わざとらしくエヘン、エヘンと咳払いをする。なるほど、咳払いひとつでも、その人がセリフの演技では素人だというのは出てしまうな〜。チューニングが止む。王女はニッコリと微笑む。

「タンゴ」が始まる。王女のソロ。ヤノウスキーはトゥで立ち、片脚を根元から耳のあたりまで高く上げ、その脚を斜め前に振り下ろす。長い脚がしなやかに、しかも鋭く空を切る。またポワントの片脚を軸にして、もう片脚を後ろに高く上げてひらりと一回転する。動きがものすごくゆっくりでダイナミック。体もすごく柔らかくて、この人は左足も耳にくっつかんばかりに高く上げられる。しかも相当にテクニカルなダンサーであると分かる。後で2度ほどやっていたけど、狭いスペースでの助走なし、いつ踏み切ったのかも分からないグラン・ジュテが、完璧180度(以上?)開脚だったのには仰天しました。

ヤノウスキーは色っぽい目つきで椅子に座っている兵士を見やると、煙管を銜えたままシミー(胸振り)をするが、タバコの煙にむせて、ぶほぶほっと咳き込む。また両手でムネの形をなぞってみせると、兵士がふらふらふら〜、と舞台に引き寄せられてくる。・・・なんかチガう路線になってないか?王女はドレスの裾を両手でたくし上げ、白ガーター・ベルトを着けたフトモモを見せながら、やはりポワントでつつつ、と兵士の目の前に近づく。

兵士もしょせんはオトコ、彼は王女のフトモモに触ろうと手を伸ばす。王女はその手をパン、と叩いて払いのけ、煙管を兵士に握らせる。それから王女は片脚を上げると、爪先を兵士の目の前に突き出し、それをくるくると回す。一緒に兵士の顔もくるくると回る。

だが、兵士は思いなおしたように踵を返し、また椅子に座り込んでしまう。あと一歩のところで兵士陥落に失敗した王女は、現れた王様(Will Kemp)になにやら耳打ちする。「タンゴ」終わり。

「ワルツ」。王女は王様とにこやかに笑いながら、小さな舞台の上で一緒に踊り始める。ケンプの王様は、アティチュードでターンするヤノウスキーの腰を支えたり、ヤノウスキーの腰を支えたままぐるぐると回ったりする。ヤノウスキーはケンプの腰を両脚で挟み込んで高く上げ、そしてケンプがヤノウスキーの体を逆さまに抱え、「ドン・キホーテ」か「眠れる森の美女」のパ・ド・ドゥみたいなポーズを決め、兵士に向かってニヤッと笑う。

楽しげ(?)な「ワルツ」に、兵士も徐々に身を乗り出して見つめ始め、とうとう自分も立ち上がって下の舞台で一緒に踊り始める。クーパー君、長い四肢を伸ばしてゆっくりと飛び跳ねるような踊り。両腕を横水平に伸ばして大きくスキップするようなジャンプに、アティチュードのターン、アラベスク、ピルエット、めったに見られない、クーパー君のクラシック・バレエお約束ステップ展覧会!(ザンレールもやっていましたが、どの音楽でかは忘れました。)

「オン・ユア・トウズ」とは違って(ごめんね)、自分の好きな振りばっかり踊るわけにはいかないし、こうしたクラシック・バレエの動きは単なるスピード任せでは片づけられないし(同じ週に行われたロイヤル・バレエ公演「マイヤリング」では、レベルの高いバレエ・ダンサーなんでしょうに、スピード任せで踊りを小器用に片づけていただけの人が数名いましたが)、こういう踊りになると、クーパー君は一体どうなるか。

意外なことに、決して形を崩すことなく、非常にきれいなお手本どおりの動きになってしまうんである。今回もみんなきれいでした。アラベスクでの腕や脚の角度はお約束どおりで、張りかけの蜘蛛の巣みたいに大きくて長く、とてもきれいだった。スピードでごまかすこともありません。特にピルエット(両腕を内側に曲げ、片脚を曲げて膝のあたりに着けたまま回るやつ)は非常にゆっくり回っていた。あら、やればできるんじゃん(←だから失礼な発言はやめなさいってば)。普段はさんざん、僕にとっては、バレエだけが重要じゃないんだな、とか強がり言ってるクセに。

でも、私が観た公演では、1回だけザンレールを見事に失敗していた。ちゃんと数回転はしたんだけど、発射実験に失敗したロケットみたいに、クーパー君、思いっきり斜めに飛んでいっちゃったの・・・。た〜まや〜。

兵士は王様と王女と一緒に、小さな舞台の上で踊り始める。三人は踊りながらお互いの位置をくるくると入れ替わり、王様はさりげなく兵士を引っ張ったり、自分が身を引いたりして、王女と兵士がとにかく隣り合わせになるように仕向ける。兵士は、最初は王女が隣に来るとあわてて逃げていたが、いつのまにか二人のペースに乗せられ、王女と仲むつまじく踊り始める。

ここで久しぶりに見た。クーパー君の「ピルエットする女性ダンサーろくろ回し」。普段からこれは難易度の高い技ではないかと思っていた。だってどんな男性ダンサーでも、これをやるときは目がマジになって、女性ダンサーの腰を必死に見つめているんだもん。このときのクーパー君もそうであった。

「ワルツ」が終わると、そのまますぐに「ラグタイム」に移る。兵士、王女、王様の三人は小さな舞台と下の舞台とを行き来して踊る。たぶんこのシーンでだと思うけど、ヤノウスキーがいきなりばっと飛び上がって、その瞬間にグラン・ジュテをやった。いつ踏ん張ったのか、踏み切ったのか、ぜんぜん気がつかなかった。すごく高くて、両脚が180度どころかそれ以上に反り返っていた。またクーパーとケンプが2人でヤノウスキーを抱え上げ、空中で1回転させる。でもドレスの裾がジャマであまりきれいに見えなかった。

婚約者の踊りや王女の「タンゴ」、「ワルツ」で、そうじゃないかとはうすうす感じ始めていたが、ヤノウスキーは実に超優秀なダンサーだと思う。トゥのまま片脚を耳にくっつくまで上げて、それから斜め前にゆっくりと下ろす振りでは、ダーシー・バッセルを彷彿とさせた。ダイナミックでしなやか。なんでロイヤル・バレエはこれほどのダンサーを冷遇してきたんだろう?

兵士と王女はもうすっかりラブラブ、「お花畑でランランラン」てなノリで、お互いにウットリした顔で、両手を横に差し出してぶらぶら揺らしながら、お尻をつん、つん、と横に突き出すようにして、体を離したり、くっつけ合ったり。このときのクーパー君が大爆笑で、困り眉に目をウットリと閉じて恥ずかしそうに微笑み、内股になって膝から先を横90度に曲げて、るんるん、と踊っていた。私は彼のあの表情と踊りは一生忘れないだろう。

王様と王女が踊っている間、兵士は小さな舞台の上にある王様の椅子に駆け寄り、椅子の背に引っかけてあった王冠をかぶる。「これでオレが次の王様かなっ?」と嬉しそうにてへっ、と笑ったところで、下の舞台で踊っていた王様と目が合う。王様は、勝手にナニしとんじゃオマエは、といきりたち、兵士はあわてて王冠を脱いでその場から逃走。

観客は「タンゴ」からこの「ラグタイム」まで笑いっぱなしであったが、更にとどめが待っていた。王様、王女、兵士は明るい笑顔を浮かべながら、両手を互い違いにヒラヒラと上下させ、また体も交互に揺らしながら、列をなして小さな舞台の階段を順番に下りていく。最後に下の舞台の中央で三人が重なって並び立ち、体を同時にユラユラさせてキメのポーズ。「ラグタイム」終了。観客から大きな拍手と大歓声。

ここの振付は、この「タンゴ」、「ワルツ」、「ラグタイム」の音楽に実によく合わせてあったし、ピュアなクラシック・バレエのステップとそうではないステップを同時に組み込んであっても、リンクが非常に自然であった。大体、ラミュの原脚本にはないあんなストーリーを、タケットはよく思いついたものだと感心したし、しかもああいうふうな振付をされても、そういえばこの音楽にはバッチリだな、と思った。

そして、こういうふざけた「お笑いバレエ」を、優れた音楽性、演技力、ついでにしっかりした高い技術を兼ね備えたバレエ・ダンサーがやると、お笑いの「質」自体がまるで違ってくることに気がついた。更に、私はこの作品で初めて、振付には、振付者のキャリアやバックグラウンドがはっきり出てしまう、ということを実感した。タケットの振付をみて感じたのは、振付には、外側からの見た目を起点として構築していった振付と、内側にある骨組を起点として構築していった振付とがあって、タケットの振付は後者に属するということだった。

3人がポーズをとっていると、いきなり会場中に獣の咆哮のような、大きな叫び声が響き渡る。その後、小さな舞台の奈落の蓋がひらき、やっつけたはずの悪魔(Matthew Hart)が顔をのぞかせる。

「悪魔の踊り」。悪魔はさっき兵士に倒されたときと同じ、赤いシャツに黒いズボン姿。兵士、王女、王様の3人はあわてふためき、王女は奈落の蓋を閉めて悪魔を出てこさせまいとし、兵士と王様はヴァイオリンを奪われないよう、バレーボールのように投げあう。

悪魔が完全に姿を現すと、3人は次々とヴァイオリンをキャッチボールしあい、悪魔はその間でてんてこ舞いする。兵士がすごい勢いで小さな舞台から下の舞台へと飛び降りると、悪魔もその後を追って飛び降りる。それからは兵士、悪魔、王女、王様が下の舞台で入り乱れ、ヴァイオリンをめぐって大騒ぎ。

兵士、王女、王様が互いにすれちがうように、舞台をジャンプしながら左右に通り抜ける。これはきれいだった。やっぱりクーパーは飛んでる最中でも姿勢がとても美しい。クーパーがケンプに向かって、ヴァイオリンをぽーんと上に投げやると同時に、2人の間でヤノウスキーがグラン・ジュテをし、悪魔の目をさえぎる。このときのヤノウスキーのジュテはすごかった。だからいつ踏み切ったんですかアナタ。なのになんでそんなに高くて、180度以上開脚して跳べるの?

兵士、王女、王様は間隔を空けて横一列に並ぶ。両手は後ろに組んでいる。誰がヴァイオリンを持っているのか、悪魔が一人一人をチェックする。最初に兵士。笑いながら両手を広げ、ほら、僕は持ってないよ〜ん、と悪魔に示す。次は王女。王女も後ろに組んでいた両手を広げ、アタシも持ってないわよ、とニッコリ笑う。最後は王様。王様は真っ青になる。ヴァイオリンを持っているのは王様なのだ。

王様はひきつった笑いを浮かべ、なぜか中腰になって、両手を広げる。ヴァイオリンは持っていない。悪魔は、あり?という表情を浮かべる。王様はそそくさと背中を見せて逃げ出すが、その背中にはヴァイオリン。なんと王様はズボンの中に、ヴァイオリンの柄を無理矢理差し込んでいたのだった。観客は大笑い、悪魔はあわてて王様の後を追う。

小さな舞台の上に逃げた王様は、ヴァイオリンを兵士に手渡す。兵士は悪魔に向かってヴァイオリンを振り回し、またヴァイオリンの弦をはじく。悪魔はその都度ダメージを受けてのけぞる。下の舞台に落ち、更に徐々に後ろに退いていく悪魔を、兵士は舞台の左端まで追いつめる。ついに悪魔は仰向けに倒れこむ。兵士はその上に馬乗りになり、「悪魔の踊り」の終わりと同時に、ヴァイオリンの柄を悪魔の心臓に突き刺して最後のとどめをさす。

「小コラール」。クーパーは悪魔の体の上から起き上がると、片足で悪魔の体を踏み、ヴァイオリンを持った手を腰に当て、もう片手はこぶしを握って前に軽く突き出し、顔を上向けてニカッと笑う。お前は石原裕次郎か。

王女はひざまずいたポーズで両手を頬に当てて顔を傾け、兵士をうっとりと見つめる。そこへ戻ってきた兵士は、王女の頭を軽くぽんぽんと叩くと、微笑みながらうんうん、と頷き、それから舞台中央に立って両手を腰に当て、顔を斜め45度の角度で上向けてポーズをキメる。観客はまたもや爆笑。クーパー君、また新境地を開いたわね。もう何の役やっても違和感ないな。

ポーズをとったまま自己陶酔の世界に浸っている兵士のズボンを、王女が先のポーズのまま、つんつん、と引っ張る。ようやく我に返った兵士は、あわてて王女を引き寄せる。アラベスクをしたヤノウスキーをクーパーが高々と持ち上げ、そのままゆっくりと1回転。それから兵士は王女を下ろし、王様とともに3人が並んでポーズをとる。「小コラール」終わり。

兵士、王女、王様がそのまま陶然とポーズをとっていると、舞台の左端に倒れていた悪魔がむっくりと起き上がる。悪魔はおきあがりこぼしのように、体を反り返らせたまま立ち上がる。「ターミネーター2」で、アーノルド・シュワルツェネッガーのターミネーターに、どデカい銃で撃たれて胸に穴があいた悪いターミネーターが、撃たれても撃たれても、その都度むっくりと起き上って歩いてくるシーンをイメージするとよい。悪魔は小さな舞台の上に立って3人を見おろす。

「悪魔の歌」。悪魔は3人を指さしながら歌う・・・というより、音楽に乗せてリズムよく語る。悪魔「よくやったな!少しは猶予を与えてやろう。だがこの王国はそう大きくもないぞ。いったん境界を越えたが最後、途端にお前は俺の思いのままになるんだ!」

それと同時に兵士、王女、王様の表情がいきなり曇り、みるみるうちに不安げな顔になる。悪魔「いい気になって図に乗りすぎるな。さもなきゃお姫様はベッドの中へ逆戻り、花婿の殿下は、俺の我慢も限界を超えたことが分かっているだろう!」 悪魔は兵士の傍に近寄ると、兵士の手からヴァイオリンをさっと取り上げる。

3人はいよいよ恐怖におびえたような顔つきになる。悪魔は叫ぶ。「地獄に落として火あぶりだ!」 悪魔のセリフと連動して打楽器が打ち鳴らされ、3人はこのセリフ(打楽器の音)と同時に、体を息苦しそうにがく、がく、がく、がく、と大きく前後に揺らす。「悪魔の歌」終わり。

この「悪魔の歌」は、伴奏の音楽も面白いし、セリフの言い回しもリズミカルでとてもよかった。終演後に子どもの観客(12歳以上にしては小さかったが・・・)がマネしていた。ちょっと英語ができるからってナマイキな。ガキは家で学校の宿題でもやってなさい。

「大コラール」。王様の姿のままの語り手が、兵士と王女の背後に回る。兵士と王女は無表情な顔をお互いに正反対の方向に向けたまま、音楽に合わせて両腕を大きくゆっくりと回す。最後、王女はお腹のあたりで両手をぴったりと重ねあわせるが、兵士は両手の間をやや開けたまま静止する。

語り手「自分がいま持っているものに、以前に持っていたものを加えようとしてはならない。今の自分の中に、昔の自分を住まわせる権利はない。すべてを手に入れることはできない。それは禁じられたことなのだ。どちらかひとつを選ばなくてはならない。ひとつの喜びこそすべての喜び、ふたつの喜びなど、何もないのと同じこと。」

それから兵士と王女はかたく抱き合う。兵士は穏やかな微笑みを浮かべて言う。「もういい、もうこれで充分だ。」 言い終わると、兵士は再び王女を抱き寄せる。客席に顔をみせて兵士に抱きしめられていた王女は、やがて兵士の背中に回していた両手をだらん、と下げ、冷たい邪悪そうな視線でじろり、と目をむく。ここで何で笑うんだイギリス人。でも、なんかこの王女おかしいぞ。ひょっとしたら、王女も悪魔なのだろうか?

語り手「しかしある日、彼女が言った。」 王女「私はあなたのことをまだよく知らないわ。あなたのことを話してちょうだい。」 おお、ヤノウスキーがセリフらしいセリフを初めてしゃべった!ソプラノ歌手みたいな、透きとおった艶のある声音である。兵士は王女からやや離れ、ゆっくりと語る。「たわいもない話さ。ずっとずっと昔、俺は兵隊だった。はるかに遠いところに、俺の故郷があって、俺は母さんと暮らしていた。でも、あまりに遠すぎて、もう故郷なんて忘れてしまった。」

王女「ねえ、私たちそこへ行きましょうよ!」 兵士はあわてて首を振る。「だめだよ、それはしてはいけないことだ。」 王女「行きましょうよ。行ってすぐに帰ってくればいいのよ。誰も気がつかないわ。」 兵士は再び首を振り、王女を宥めるように抱きしめようとする。王女は急に冷たいそぶりで彼の手から逃れる。兵士は困った顔。王女は婉然と微笑む。「さあ、こっちへ来て。」 彼女は近くにあった椅子の背を両脚でまたぐようにして座る。

王女は強い口調で断言する。「あなたは行きたいのよ。そして、あなたは行くことができるわ。ええ、ええ、そうなのよ!あなたは行きたいのよ。そして、あなたは行くことができるわ。」 王女は再び兵士の傍に寄り添う。兵士は王女の肩を抱く。

王女は冷たく微笑みながら、兵士を促す。「さあ、あなたは『うん』と言うんでしょう?」 兵士はしばらく戸惑った表情で黙りこんでいる。これはヤバいぞ。うん、と言っちゃいけないよジョゼフ。やがて兵士は泣き出しそうな笑いを浮かべながら、「うん、うん」と言って何度もうなずく。あ〜あ、言っちゃった。兵士は懐かしそうな顔をしてつぶやく。「ひょっとしたら、今度は母さんも俺のことを思い出してくれて、一緒に住んでくれるかもしれない。そうなったら、本当にすべてがうまくいく。」

語り手「彼らは出発した。もうすぐそこへ着こうとしている。なつかしい風景が目に入る。」 すると、小さな舞台の幕が上がる。舞台の中央には、ヴァイオリンが横向きに立てかけて置いてある。ヴァイオリンは暗いスポットライトの中でぼんやりと浮かんでみえる。兵士が先に立ち、その後ろに語り手が王女の肩に自分の上着をはおらせ、小さな舞台に向かって歩き出す。

語り手「彼は境界を踏み越えようとする。」 兵士が小さな舞台に通じる右側の階段をのぼりきって、小さな舞台に足をかけたその瞬間、いきなり右のテラスから、悪魔が手すりをまたいで現れる。

「悪魔の凱旋行進曲」。悪魔は髪の毛を角のように2本に逆立たせ、上半身は汚物にまみれたかのように汚く、毛むくじゃらの下半身という、悪魔の正体をさらけだした醜く恐ろしい姿。すごくグロい。顔はこれまた「エクソシスト」で悪魔に憑依された少女そっくり。いきなり出てきたときには、ひょええええっ、と最初マジでビックリした。観客の間から悲鳴の混じった笑い声が起きる。

王女はキャーッと悲鳴を上げて逃げ出す。ハートは裸の上半身に塗料を塗りたくり、下半身は、地が淡い肌色かもしくは透明の、動物の毛を貼り付けたタイツを穿いている。なんというか、ホントにオール・ヌードかと最初は思った。後でじっくり観察したら、ちゃんとサポーターは身につけていた(当たり前だけど)。

悪魔は語り手の肩に足をかけてテラスから舞台に飛び降りる。語り手はほうほうの体で姿を消す。ハートの悪魔は、両腕を曲げて前に突き出し、手の指は獣の鉤爪のように広げ、引っ掻くような形にしている。足は反つま先立ちの裸足で膝を曲げており(これはかなり辛いポーズだったろう)、ヨーロッパの中世に描かれた悪魔の絵によくある、半獣半人で、頭に角を生やして下半身がヤギの脚をしている、伝統的な悪魔の姿そのもの。尻尾があったかどうかは忘れた。

王女も語り手もいなくなった。舞台には兵士と悪魔のふたりきり。そう、この作品はもともと、兵士と悪魔との闘いの物語だったのだ。王女も王様もいない。語り手すらも。となると、いったい誰が実在したのか分からなくなってくる。

兵士に未練のある婚約者、彼女は果たして現実の彼女の姿だったのだろうか?兵士の妄想ではなかったのか?王女や王様も、もしかしたら、兵士が立ち寄った「王国」そのものが、兵士が頭の中で描いた幻だったのではないのか?語り手が兵士の理性、知恵、勇気、我慢強さなどの部分だとすると、悪魔もまた兵士自身に他ならない。悪魔は兵士の愚かさ、あさましさ、欲の深さ、気の弱さ、ご都合主義などの部分である。

悪魔は兵士に襲いかかる。邪悪で凶暴な正体をむき出しにした悪魔から、兵士は悲鳴やうめき声を上げながらも必死に逃れようとする。悪魔は小さな舞台から飛び降りた兵士の肩に乗っかり、自分も舞台の上に降りる。兵士は悪魔にボコボコに殴られ、這いつくばって逃げる。しかし、悪魔は唸り声を上げながら兵士の片足を持つと、兵士の体をひっくり返してまた襲いかかる。

兵士はうつ伏したまま肩で息をし、もはや瀕死の状態である。悪魔は兵士のズボンのサスペンダーをつかみ、兵士を吊り上げるようにして立ち上がらせる。そして立ち上がった兵士の股間をギュッとつかむと、それを一気にちぎり取る(12歳以下のよい子のみなさんへ:お○ン○ンを生きたままむしり取られると、とっても痛いんだよ。おねーさんは経験ないけど)。

その瞬間、兵士は凄まじい悲鳴を上げる。このときのクーパー君の表情と悲鳴はすごかった。右手を頭に当てて、目をつぶって苦痛に顔を歪めて、ギャアアアアアッ、って。

兵士は壊れた機械人形のようにその場をぐるぐると歩き回る。悪魔は兵士を手でさし招く。兵士は眼を見開いたまま硬直した表情の顔をうつむけ、肩をすくめ、両腕をぴったりと体につけ、摺り足ですすす、と歩いて悪魔の後に従う。

悪魔と兵士は小さな舞台に上がる。悪魔が奈落の蓋を開ける。中は真っ赤な炎が燃えさかっている。悪魔が兵士を再び手で招く。兵士はガックリと膝を折ると、ロボットのようにカク、カク、カク、と膝歩きで奈落に近づく。悪魔が兵士を奈落に押し込む。

兵士は恐怖に満ちた表情で、最後の力をふりしぼって奈落の縁にすがりつく。が、悪魔はそれをせせら笑い、足で兵士を突き落とす。断末魔の悲鳴を残して、兵士の姿が奈落の底へ消えていく。兵士が落ちていった後、悪魔はヴァイオリンをつまみあげて奈落に落とす。そして嘲笑を浮かべながら奈落の蓋をバン、と閉める。

打楽器の音だけが響いている。その音は徐々に大きくなっていく。小さな舞台のライトが落とされ、舞台の奥から白いライトが当てられる。悪魔はライトを背にして立つ。四肢をひん曲げた影が浮かび上がる。悪魔は最後に咆哮するように顔を上げる。一段と大きくなった打楽器の音がいきなり途絶え、同時に幕が下りる。

息をはりつめていた観客が、一斉に大きな拍手と歓声を上げはじめる。舞台のライトが点灯され、出演者4人、アダム・クーパー、マシュー・ハート、ゼナイダ・ヤノウスキー、ウィル・ケンプが揃って出てくる。すさまじいブラボー・コールが小さな劇場に響き渡る。4人は横に並んで深々と礼をする。クーパー、ハート、ケンプは普通に立ったまま上半身を折り、ヤノウスキーは優雅にかがんで一礼する。

4人は順番に先頭に立って走り出てきて喝采に応える。それからまた出てきてお辞儀をした後、一斉にオーケストラ・ピットの近くに走り出て、下のオーケストラ・ピットを両手でばっ、とやや大げさな仕草で指し示す。7人だけのオーケストラ。1人が間違えたら取り返しがつかない。私が観た公演ではほとんどミスなし。確かに腕のいい演奏者たちである。

それからリチャード・バーナスの指揮もすばらしかった。ブーレーズ指揮の録音版みたいに一本調子でトロかったらヤだな、と思っていたけど、テンポは基本的に速く、しかも緩急や音のメリハリがあってドラマティックな効果を高めていた。観客はオーケストラにも大きな拍手とブラボー・コールを送る。指揮のバーナス、7人のメンバーがそれに手を振って応える。本当に嬉しそうに笑っていた。4人の出演者は何度も前に飛び出てきて、オーケストラ・ピットへの拍手を促していた。

初日の公演からしてブラボー・コールがとびまくりで、それから連日、カーテン・コールでは毎度、大きな拍手と喝采が送られた。最終日には、会場全体が総立ちのスタンディング・オベーションになり、出演者たちは役柄とはうってかわって、ニコニコと嬉しそうに笑っている。クーパー君も歯を見せて明るく笑っていた。最終日、出演者たちが退場していくとき、最後尾のハートが例の半つま先立ちの「悪魔歩き」をして舞台奥に消えていき、最後まで笑わせてくれた(ちょっと悪ノリしすぎな感がないでもなかったが)。

最終日、カーテン・コールが終わり、観客たちが狭い通路や階段にひしめきながら帰途につく。2階の立見席の端に、振付者のウィル・タケットが立っていた。それに気づいた観客たちが、口々に「おめでとう!」と声をかけていた。ということは、やっぱり、この公演、作品的に大成功を収めた、ということか。小さな会場で、しかも安いチケット代(15、12、8、5ポンド)の割に、デザイン、キャスト、オーケストラはまさに「ドリーム・チーム」(ある方の表現。まさに的を射ている)だったから、興行的に大もうけできるわけはない。

公演は何を以て「成功した」といえるのか、私は最近分からなくなっていたから、観客たちがタケットに「おめでとう」を言っていたのは、タケットばかりではなく、他のスタッフ、オーケストラ、キャストへの賛辞でもあると思って嬉しかった。


付記

私はタケットの短い作品をふたつしか観たことがなかったけど、今回の公演で、タケットは物語バレエでも高い能力を持つ振付家だということが分かった。なんと表現したらいいのか、おちゃらけた振付でも、常にその下には「骨」のようなものがあった。なにせ10数分の短い作品でも、公演の半年以上前から準備を始めるような人である。今回の作品も、よほど前からよくよく準備していただろう。

「兵士の物語」は、ラミュの脚本というか、詩自体はさほど高い評価を受けなかったそうだ。私はいちおう事前にCDを聴いて脚本の日本語訳を読んだが、作品の具体的なイメージがつかめず、さっぱりワケが分からなかった。でも、それは当たり前だった。「読まれ、演じられ、踊られる」ための作品だったのだから。「演じ、踊る」部分は、振付家や出演者によって補われるものだった。それではじめて、作品全体が完成し、意味を持つのだった。

脚本には当時の時事ネタが多少は盛り込まれていたものの、やはり民話的な雰囲気に満ちた寓話の要素が強かったから、その「演じ、踊る」部分は、演出家、振付者や出演者の自由な裁量に任されていた。人によって違うふうに解釈したり、演じたり、踊ったりできるのである。それがこの作品の魅力であり、また難しいところでもある。

4人の中で、踊り、セリフ、演技などの総合的な面では、アダム・クーパーとマシュー・ハートはとびぬけていた。ヤノウスキーの演技やバレエはすばらしかったが、セリフは短いものしかなかったとはいえ、明らかに素人まる出しであった。ウィル・ケンプはダンスの舞台から遠ざかっているブランクが、少し踊りに出ているようだったし、やはりクーパーやハートに比べると、特にバレエにおけるキャリアの差が、そのまま踊りの差となって現れるのは仕方がない。

クーパーとハートはすばらしかったが、お互いの役柄の表現が悪い方に作用してしまったところがあった。クーパーは、わるくいえばひたすら没個性に徹し、よくいえば兵士を平凡な普通の人間として演じていた。だが、彼の表情は一貫して鈍くてあまり変化がなく、何を考えているのか分からなかった。セリフでの演技力も、去年の夏の「オン・ユア・トウズ」に比べれば格段に進歩していたとはいえ、まだ素人くささが残っていてプロの役者というにはほど遠い。だから、なぜ兵士が破滅への道をたどらなければならなかったのか、兵士の動機がいまいち腑に落ちない。

録音版をいくつか聴くと、兵士がどういうキャラクターなのかは様々で一定していない。また原脚本では、兵士のセリフのほとんどは語り手によって述べられるため、兵士のセリフはほんのわずかで、なおさら兵士の人物像が浮かびにくい。

今回の公演では、語り手が受け持つ兵士のセリフを、すべて兵士に言わせていた。だから余計に難しかったとは思う。参考にするものがほとんどなかったに等しかったろう。クーパーには彼なりの兵士の解釈があったのだろうし、もしかしたら、ああいう無邪気でアホで、自分というものを持たずに、目先の利益や思い込みでコロコロ気を変える、というのが、クーパーの兵士だったのかもしれないが、それは表現としては舌足らずで、それがハートの悪魔と合わさって余計に分かりにくくなった。

ハートはすべての人間の内側にある悪魔、というよりは、まさしく妖怪としての悪魔という感じだった。ラミュの脚本では、悪魔のキャラクターやセリフは、最も分かりやすく意味がはっきりしており、ハートのアクの強いあの演技は観ていていちばん楽しかったし、まさに本領発揮、という感じのノリノリぶりだった。しかし、作品中の登場人物としてよりは、マシュー・ハート自身の個性を前面に押し出そうという雰囲気が強く、時にハートだけが作品から浮き上がってしまっていた。

だから今回の公演は、ありきたりな「人間の兵士を妖怪の悪魔がたぶらかす物語」になってしまった面があることは否めない。これはラミュの原脚本が曖昧なせいでもあるし、また演出・振付のタケットにも大いに責任があると思う。人間が悪魔に翻弄されて地獄に落ちる、という話に、見事な振付とユーモラスな演出を加えたものの、じゃあ結局、全体としては何を言いたかったのか、ただ観客を感嘆させたり爆笑させたりしたいだけだったのか、よく分からない。

見た目だけですばらしいのも大事だと思うが、やっぱり何を言いたいのかという、一貫したメッセージを分かりやすく表現するのも必要だと思う。それを観客がどう受けとるかは観客の自由だが。原脚本を崇め奉る必要はないが、いくら抽象的で舌足らずとはいえ、ラミュの脚本は、ただの「人間を悪魔がたぶらかす物語」ではないのは確かだ。あの難しい脚本を、タケットはどう解釈したのか、もっと知りたかった。

もっとも、私にとっては、分からなかっただけに、自分でいろんなふうに考えることができた。ちょうどイラク戦争のこともあったし、ジェンキンスさん問題のこともあった。私はアメリカ軍の規定では、脱走が死刑になるほどの重罪だとは知らなかった。またベトナム戦争や湾岸戦争から帰還した兵士たちの間に、いわゆるPTSDの症状を呈する人たちが多い、ということをどこかで読んだのを思い出した。第一次世界大戦で、当時でいう「戦争神経症」にかかった兵士たちが、四肢を激しく痙攣させている白黒の映像が頭に浮かんだりもした。

当時の世間の人々は、それを「仮病」とみなし、そして帰還兵たち自身ですらも、自分を臆病者だと恥じたという。残酷さや無神経さは「勇敢」とされ、優しさや繊細さは「臆病」とされた。臆病なジョゼフは勇敢になろうとしてそれができず、結局は自分の身を滅ぼした。

あのヴァイオリンはいったい何だったのか、人間にとって真に大事な幸福の象徴であるにはちがいないが、それだけでもなかったようだ。立派な「男」であることを証明するもの、それは肉体的なことでもあるし、精神的なことでもあるようだった。悪魔は最後に、嘲笑いながらヴァイオリンを地獄の底に投げ捨てる。兵士がこだわったヴァイオリン、「男」としてのパワーなど、所詮は何の価値もないものだった。

今回の公演は、コンサート形式で語り手が全員のセリフを朗誦したり、演劇形式にして踊りを削除したり、各キャストを、セリフを担当する俳優と踊りを担当するダンサーの2人に受け持たせたりする形式ではなかった。4人の出演者が、セリフ、演技、踊りすべてを担当した。

思ったのは、バレエが踊れる、演技ができる、セリフがしゃべれる、というパフォーマーがなかなかいないのではないか、ということであった。だからこういう上演形式は難しいだろう。バレエはバレエ、演劇は演劇、ミュージカルはミュージカル、コンテンポラリーはコンテンポラリー、それぞれのジャンルが専門化していくに従って各々が分業化し、「兵士の物語」のような作品の上演を難しくしている。

ヤノウスキー、クーパー、ハートは、みな個性的で且つ優れた技術、演技力、音楽性の持ち主である。こういうダンサーを冷遇し、彼らをいたたまれない思いにさせ、またそこを去る決心をさせたロイヤル・バレエは、いったい何を守ろうとしてきたのだろう。

この時期、ロイヤル・バレエはケネス・マクミラン振付の「マイヤリング」と、ジョン・クランコ振付の「オネーギン」を上演していた。ある方から聞いた話である。その方は、現在のロイヤル・バレエでの、事実上のプリンスといえるダンサーがルドルフ皇太子を踊った「マイヤリング」を観たが、ほとんど印象に残らなかったという。

またあるイギリス人に聞いた話では、以前のプリンスであったダンサーも、今回はじめてルドルフを踊ったが、そのダンサーのルドルフは非常によかったそうである。ただ、そのダンサーはもう40歳を越えている。私はそれを聞きながら、40歳を越えて今さら「新境地」を開いてもねえ、とひそかに思った。ダンサーとして年齢的にどうだ、という意味ではなく、いいトシした大人にしては、ほほえましすぎるっていうか、たわいなさすぎるというか。だって、じゃあ40歳になるまで、ただ漫然と踊ってきたの?

最後に、クーパー君についていくつかの話。今回の公演では、クーパー君がイギリス英語をしゃべっていたので驚いた。トニー・ブレアみたいだった(←いいすぎか)。よく考えると、別に驚くこともないんだが。イギリス人なんだから。でも、なにせ舞台でしゃべるクーパー君は、「オン・ユア・トウズ」でしか観てないから。

ある人が「兵士の物語」を観終わってから、クーパーが「オン・ユア・トウズ」に出演していなければ、彼が「兵士の物語」に出演することもなかったかもしれない、と言った。ああ、そうだなあ、と思った。クーパーが「オン・ユア・トウズ」に出演することになったとき、バレエ・ダンサーのクセに無茶なことをやりやがる、という批判が少なからずあったそうだ。

でもその「無茶な」チャレンジが、今回のような上演形態の「兵士の物語」の公演実現に繋がったとするなら、クーパー君が批判を受けながらもやってきたことは、ミュージカルとは別ジャンルであるバレエでも、見事に実を結んだことになる。しかも従来のバレエの枠を越えた形で。

キャラクター的にはハデではなかったが、踊りの面でいちばん重要な役割を負っていたのは、結局のところクーパー君であったことには違いなかった。以下はマシュー・ボーン「白鳥の湖」の本物のロンドン初演を観た人が、やはり「兵士の物語」終演後、帰り道に言っていたことである。

ボーン版の「白鳥の湖」が初演された当時は、イギリスではテレビや新聞などマスコミも巻き込んでの大騒ぎになったそうである。クーパー君もインタビューに出ていたりしていたが、その人はインタビューでのクーパー君の態度や応答から、妙に自信過剰というか、無理に強がっている、という印象を受けたという。でも今回の「兵士の物語」では、肩の力が抜けて自然になったと思う、とその人は言った。

私はそれを聞いて、心の中で少し涙がちょちょぎれた。クーパー君、本当に苦しかったんだね、それを10年かけて、ようやくここまできたんだねえ、そう思いながら、コヴェント・ガーデンの石畳を見つめていた。


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