Club Pelican

Diary 20

2005年3月1日

「危険な関係」日本公演が終わりましたね。みなさん、お元気ですか〜?今回の舞台は、よほどみなさんの心の中にある、なんらかの部分にヒットしたんですね。メールを多く頂戴しました。ありがとうございました。

あの舞台が心にヒットしたのは私も同じでした。ジャスト・ミートです。さっき、ある方へメールを書いていて、あ、そういうことだったのかな、と思ったのでここでも書きます。ライティング(書くこと)の長所は、胸の中でモヤモヤしていたことを明瞭に表現できるところですね。

今回の「危険な関係」の最大の特徴は、18世紀の原作を、21世紀の視点によって解釈し、21世紀の価値観で判断して表現したところにあります。だからこそ、18世紀の作品が現代的な意味を持って、私たちの心にヒットしたのだと思います。

しかも、芸術家にはありがちな、悪徳を美化したりするような甘ったるいロマンティシズムは一切なく、「良いことは良い」、「悪いことは悪い」という至極単純な道理を貫きとおしました。

本質が醜いものは醜く描き、美しいものは美しく描いたのです。単純に過ぎるかもしれません。でも安定していてバランスがとれています。いかにも冷めた感覚の現代っ子が創った、という舞台でした。ロココ調ノスタルジーお耽美趣味の舞台にならないですんだのはこのおかげでしょう。

余談です。ライブドアの堀江社長は実に面白い人ですね。物の考え方が根本的に全く異なる若い人が、それまでおじいさんたちがなあなあでやってきた世界にいきなり乗り込んでくる。おじいさんたちの慌てふためいた様子には、申し訳ないですがつい笑ってしまいます。

それにホリエモンのおかげで、日本のプロ野球界、メディア界、株式市場、株の売買、企業買収などについてお勉強ができました。

あと、私にしては珍しく、確定申告を早々に済ませました。未申告だった過去の年の分もやったら、税金が数万円も戻ってくることになりました。やっぱり確定申告はやったほうがいいですよ。やらないと絶対に多く取られるから。


2005年2月16日

「危険な関係」2月16日公演(東京公演最終日)。ヴァルモン子爵:アダム・クーパー、メルトイユ侯爵夫人:サラ・バロン、トゥールヴェル夫人:サラ・ウィルドー、ロズモンド夫人:マリリン・カッツ、ヴォランジュ夫人:ヨランダ・ヨーク・エドジェル、セシル:ナターシャ・ダトン、ダンスニー:デミアン・ジャクソン、ジェルクール伯爵:バーネビ・イングラム、プレヴァン:サイモン・クーパー。

今日で「危険な関係」観劇の日々が終わります。私は「往復の交通費や宿泊費を合計すると、そのぶん東京で観ればいいや」というみみっちい考えの持ち主なので、未練たらたらですが地方公演の追っかけはしません。

五反田での初日は寂しかった(笑)ですが、日が経つにつれて観客がどんどん増えていき、青山ではキャンセル待ちが出るほどの大盛況となりました。逆のパターンではなかったのでよかったです。

自分が何回観たのか、数えたら自己嫌悪に陥りそうなので数えていません。でもそれだけの出費をした価値は十二分にありました。舞台から私がもぎ取ったものは実に多かった。

生意気言いますが、観劇というのは、完全に受身的な姿勢で臨むものではないと思います。やはり観る側も、努めて舞台からなにかを受け取り、それを自分の頭で考え、自分なりに消化していく、そういう過程を経るべき行為でしょう。

クーパー君は、観客に舞台を見せることを、子どもにお菓子を与えることと同じように考えているようですが、私はそうは考えません。観客をそんなふうに見くびってもらっては困る。子どもをしつけるのが必要なように、時には観客もしつける必要があります。

また観客も、一方的に相手(舞台)からなにかをもらえるもの、と甘えた考えを持たず、自分から積極的になにかをつかみ取ろうとしなくてはなりません。漫然と観るくらいだったら観ないほうがいい、これが私の主張です。そんな理想論を言ってたら観劇する人なんかいなくなるよ、という声が聞こえてきます。でも現実がどうあれ、やはりそうすべきなのです。

今回の公演では、最初の10日間くらいは変更や増補が本当に多かったです。キャストのほとんど全員が舞台上にいたはずですが、やはりスタッフが客席にいてチェックしていたんですね。ここは分かりにくい、という部分は、次に観に行ったときまでには大抵が分かりやすいように直されていました。

面白いのが、サイモン・クーパーがたった1回だけヴァルモン役として主演した(2月11日夜公演)後です。これが男兄弟というものなのか、次にアダムのヴァルモンを観たときには、彼の踊りで粗くなりがちだった部分が、見違えるように丁寧でキレのいいものになりました。サイモンが主演した舞台をアダムは客席で観ていたでしょうから、兄の踊りが自分と比較してどう違うのか、当然気づいたでしょう。

またそればかりではなく、サイモンが独自にアレンジして効果を発揮した演技を、アダムもやるようになりました。あ、兄ちゃんのやり方のほうがいいや、という合理的な判断によるものでしょうが、でもなんかほほえましいです。

今日はバーネビ・イングラム氏のジェルクールをはじめて観ました。初対面のセシルを値踏みするシーンでは、なんとなくユーモアがあって笑える、ブリリアントなエロオヤジぶりでした。

今日はナターシャ・ダトンがセシルでした。ヘレン・ディクソンのセシルと違うのは、たぶんこういうことだと思います。バレエにおける身体的な条件やテクニックは、ダトンのほうが上です。でもバレエという「踊り」を通じて、その人物の性格や感情、その場の雰囲気を表現する、という面では、ダトンはディクソンに及ばない。

そしてダトンの顔の演技は、完全にバレエのそれなのです。ダトンはびっくりするような美少女で、目鼻立ちがはっきりしていて表情が分かりやすいのですが、いかにも演技しているという感も漂っています。でもディクソンの顔の演技は演劇的です。だからディクソンのほうが自然で生々しく感じられます。

前にダンスニーの存在感が希薄だ、というようなことを書きました。でもよく考えると、原作を絶対に遵守する必要はないし、そもそもラクロの「危険な関係」の正しい解釈なんて分かりません。ですから、この舞台はラクロ作「危険な関係」の解釈の一つだと思ってもいいし、またラクロの小説にインスパイアされた別個のダンス劇だと思ってもいいのです。

あとは、ダンスニーを超純情な青瓢箪の音楽教師、というキャラ設定にしたのも、ヴァルモンとの違いを強調するためで、しかも単なる対比のためではないようです。第一幕でセシルとダンスニーが踊るシーンは2回あります。その中でのセシルとダンスニーの踊りや仕草、動作にはある特徴があり、それが繰り返し出てくることもあります。

ヴァルモンはメルトイユ侯爵夫人と一緒に、そんなセシルとダンスニーの様子を眺めています。ヴァルモンとメルトイユは、セシルとダンスニーの恋を明らかに見下しています。

ところが、第二幕で形勢は見事に逆転します。恋愛の達人であるはずのメルトイユとヴァルモンは、セシルとダンスニーが自然にできることがまったくできない、ということが明らかになります。セシルとダンスニーが交わし合っていた愛情の表現を、メルトイユとヴァルモンが試みるとどうなるか、結果は非常にみじめなものでした。

しかしヴァルモンは、それらを後でトゥールヴェル夫人から教えてもらいます。彼はそこでようやく、最初はトゥールヴェル夫人に対して、次にセシルに対して、自然な愛や優しさの感情を、ぎこちないけれども素直に表わすことができるようになります。その結果、彼は死にます。

ヴァルモンは長髪のカツラをかぶっており、その下は丸坊主です。私は最初、これにこの時代特有のグロテスクさを感じました。でも基本的には、彼の表の顔と裏の顔が、あのロン毛と丸刈りによって強調されているようです。また丸坊主のヴァルモンは、本当のヴァルモンです。では彼がカツラを脱ぐことは何を意味するのか?

更に、ヴァルモンがトゥールヴェル夫人の手を取って彼の頭を触らせる、という動作がシーンを変えて反復されます。動作自体は同じですが、明らかに違うところがあります。それでヴァルモンの真意の違いも分かります。トゥールヴェル夫人がヴァルモンに絶望して駆け去った後、ヴァルモンはソロを踊ります。そこで彼が盛んにやっていた仕草というか振りがあります。これも非常に象徴的です。

登場人物たちの踊り、動き、仕草にはすべて意味があります。雰囲気で表現している場合もあるし、具体的に表現している場合もあります。音楽も同様です。これほど強力な意味を持った音楽もめずらしいと思います。効果音とライティングももちろんそう。

これらの要素は連動していて、全体でなにかの意味を示しています。でも決して難解ではなく、なんかいいなあ、と感じたらそうだろうし、なんかヘンだな、と感じたらそうだろうし、こんなのイヤだなあ、と感じたらまったくそうなのだろうと思います。また同じ振り、動き、仕草と、音楽では同じメロディやフレーズ、同じ効果音が出てきたら要注意です。

またあの美しく幻想的で、どことなく不吉な雰囲気の漂う舞台美術には見とれるばかりでした。詳しい描写は控えますが、舞台が一つの世界になっていました。確かにお金はかかったでしょうが、無駄遣いはしていないところにも感心しました。基礎となる大きなセット、小道具、衣装を用意すると、後はシーンによってそれらを様々に工夫して使い回していました。

私はこの作品では女性の登場人物たちに興味がありました。ダントツはやはりメルトイユ侯爵夫人です。私はもちろん彼女のような人間に憧れてはいないし、彼女の主義や行動には賛同も共感もできませんが、でもどこかで、彼女に同情するというか、彼女がなぜああならざるを得なかったのか、理解できるような気がするのです。

この舞台を観た当初は、私はすっかり落ち込んでしまいました。女性の登場人物たちがあまりにかわいそうだったからです。18世紀でも現代でも、事情はあまり変わっていませんから、私は女性の登場人物たちに感情移入してしまいました。

私は心理療法士をしている人にこの舞台のことを話しました。その人は舞台のストーリー自体にはあまり興味を示さず、私が感情を揺さぶられた点は何かを聞いてきました。私が説明すると、その人は「その舞台は観る人の心に吸収されやすいみたいだから、舞台は舞台として割り切って観るように」とアドバイスしてくれました。

今こうして観劇を終えて、私は再びその人に電話してみました。きっと笑われるな〜、と思いつつ、メルトイユ侯爵夫人という人物についてどう思うか尋ねると、意外にもその人はメルトイユ侯爵夫人に興味を持ったようでした。

その人は仕事柄、断定的な物言いはしないし、過激な言葉も一切使わないのですが、私の話を聞いてすごい表現をしました。メルトイユ侯爵夫人には「看板」がたくさんある。申し分ない家柄と高貴な地位、豪奢な生活、高い知性と教養、魅力的な美貌、社交界の花形、すべてが完璧。でもその立ち並んだ看板の裏では、小さなコマネズミが縮こまって震えている。

人との関係をすべて勝ち負けや上か下かでジャッジする。自分が常に勝ち、常に上位にいなくてはならない。そんなにプライドが高いということは、実はひどく気が弱いということ。自分に自信がないからこそ、風船みたいにプライドを膨らませる。

私はこの言葉を聞いて、ようやくすっと割り切れた気がしました。同時に、彼女に過度に感情移入する必要はないことも分かりました。どんな事情や背景があったにせよ、結局はメルトイユ侯爵夫人自身が、望んでああなったわけですから。彼女はああいう人間なのです。ただそれだけのことです。

今日の公演は、舞台上のキャストたちもテンションが上がっていたし、オーケストラも完璧でした。最終日とあって、観客の熱気も尋常ではありませんでした。ラスト・シーン、サラ・バロン扮するメルトイユ侯爵夫人の影が、青白い鋭い光の中に浮かんで消えたとき、客席から一斉にすさまじい拍手と歓声が起こりました。

キャストたちには分け隔てない拍手と喝采が送られました。それでもやはり差はあります。メルトイユ侯爵夫人役のサラ・バロンが現れたとき、拍手と歓声が段違いに大きくなり、観客が次々に立ち上がって拍手を始めました。ブラボー・コールをしていたブラボー屋さんもびっくりです。彼女の存在感は本当に大きかったし、ダンス作品ではめったにみられない、迫力ある演技と踊りを披露してくれました。

続いてトゥールヴェル夫人役のサラ・ウィルドーが現れました。サラ・バロンに勝るとも劣らない拍手と喝采が起こり、またもや観客がバタバタと立ち上がります。サラ・バロンが表現した強烈なキャラクターによって、かすんでしまいかねない儚げなキャラクターを、精緻で雄弁な表情と踊りとで演じきり、決して負けませんでした。しかも彼女の体調はまだ万全とはいえないはずなのに、本当によくやり遂げました。

そして最後、アダム・クーパーが現れました。拍手と喝采が更に段違いに大きくなりました。男女とりまぜた歓声とブラボー・コールが起こり、大勢の観客が立ち上がり、この時点でほとんど総立ち状態になりました。これがつまりは結果なのです。

クーパー君は両腕を広げて観客に応えながら、力強い目つきでまっすぐ前を見据えています。その口元には微笑が浮かんでいましたが、あの静かだけど自信をみなぎらせた鋭い目つきが印象的でした。

私はみんなが一斉に前に出てくるまで我慢しました。キャストが手をつなぎ、全員で前に出てきてお辞儀をしました。私もやっと立ち上がって拍手しました。

サラ・バロンが指揮者のスティーヴン・レイドを迎え、再び全員が前に出てきて一礼し、オーケストラ・ピットを手で指し示しました。音楽が非常にすばらしく、少人数なのに演奏もすばらしかった。しかも、ひっきりなしの効果音、くるくる変わるライティング、(よく考えると多かった)場面転換と合わせなくてはならず、さぞ大変だったろうと思います。

観客はオーケストラ・ピットに手を差し伸べるようにして、メンバーに拍手と喝采を送りました。ダンス作品の上演で、オーケストラに対する拍手喝采がこれほど大きくなるのも珍しいでしょう。オーケストラのメンバーは楽器や手を振り上げて観客に応えました。

一向に止む気配がない拍手と歓声の中で、キャストたちは笑いながら顔を見合わせて、嬉しそうになにかしゃべっていました。東京公演の最終日なので、カーテン・コールは数回行なわれました。キャストたちは最後のお辞儀をした後、二手に分かれて退場していきました。

いつもはみんなと一緒に退場するクーパー君は、めずらしく舞台左袖の前で歩調を緩めてひとり残り、観客に向かって片手を上げて大きく振りました。彼はぶんぶんと手を振りながら姿を消しました。客席のライトが点灯され、東京公演は終了しました。


2005年2月15日

「危険な関係」2月15日夜公演。ヴァルモン子爵:アダム・クーパー、メルトイユ侯爵夫人:サラ・バロン、トゥールヴェル夫人:サラ・ウィルドー、ロズモンド夫人:マリリン・カッツ、ヴォランジュ夫人:ウェンディ・ウッドブリッジ、セシル:ヘレン・ディクソン、ダンスニー:デミアン・ジャクソン、ジェルクール伯爵:リチャード・クルト、プレヴァン:サイモン・クーパー。

私はいつも開演時間ギリギリに駆け込むことになってしまう。時間を読み誤るときもあるが、ほとんどの場合は、開場と同時に入っても別にやることがないからである。観劇前のお茶や軽食、トイレなどは近くのお店で済ませればいい。その方が安いしおいしいし気楽だし混んでない。

この日も近くのコーヒー・ショップでついぼんやりしていた。ふと時計を見ると、もう10分で開演ではないか!ダッシュして開演3分前くらいに劇場に入った。途中で2回くらい車に轢かれかけた。青山近辺の信号機は非機能的ではないか。道が混んでいるのでドライバーの運転も乱暴だ。右折・左折する車は、横断歩道を人が渡っていてもあまり徐行しない。

んでキャスト表を確認する間もなく自分の席についた。舞台を覆っている白い幕がふくらむ。これが開演の合図だ。ギギーッ、ガチャン!という大きな音が響いた瞬間、客席が真っ暗になる。あの白い幕がゆっくりと引かれ、黒装束に黒い仮面の人物たちが、燭台や松明を持って薄暗い舞台の上を行きかう。

ああ、メルトイユ夫人はサラ・バロン、セシルはヘレン・ディクソン、ヴォランジュ夫人はウェンディ・ウッドブリッジ、ダンスニーはデミアン・ジャクソンね、と分かっていく。とすると、今日もトゥールヴェル夫人はナターシャ・ダトンだな、と思った。というよりは、最初からそうだと思い込んでいた。

セシル、ダンスニー、ヴォランジュ夫人の関係を撹乱して、セシルとダンスニーの連絡をヴァルモンが仲介する理由を作り出したメルトイユ侯爵夫人に、ヴァルモンがお見事!とばかりに拍手する。メルトイユ夫人は悪戯っぽい笑いを浮かべ、優雅にお辞儀をする。

その後、舞台は一転してぱっと明るくなる。淡い緑の木々が描かれた風景画のような白い背景の中に、黒いヴェールをかぶって黒い喪服をまとったトゥールヴェル夫人の後ろ姿が見える。ナターシャ・ダトンは黒髪。しかし、黒いヴェールの下はなんだか明るい色のような・・・ひょっとしたら、いや、まさかそんな、と思った瞬間、トゥールヴェル夫人が黒いヴェールをぱっと脱いで前を向いた。サラ・ウィルドーだー!!!

トゥールヴェル夫人のソロ。ウィルドーは眩しそうな、穏やかな表情で、四肢をなめらかに動かし、黒いドレスの裾を美しく翻しながら、舞台いっぱいに踊っている。はい、白状します、私はこれで泣きました!ウィルドーが出てきただけで泣きました!

東京公演では、もうサラ・ウィルドーのトゥールヴェル夫人は観られないだろうと思っていた。最悪の場合、今回の日本公演の舞台に復帰するのは難しいとも思っていた。ウィルドーは9日にはトゥールヴェル夫人を踊った。カーテン・コールまで彼女はいつもと変わりなかった。

カーテン・コールが終わって出演者たちが脇に退場していく。私はサイド席に座っていたので、彼らの後ろ姿が見えた。ウィルドーはとたんにクーパーにもたれるように歩き、クーパーは彼女の肩をがっしりと抱え、彼女の頭にキスをした。

そのときは感極まったのかと思ったが、そうではなかったのだった。ウィルドーは体調の悪さをおして踊っていたのである。その翌日から彼女は舞台に現れなかった。

でもウィルドーはそれから1週間も経たないうちに復帰した。やっぱりダンサーは普段から鍛えているから、あんなにはかなげに見えても常人より体力はあるんだろうし、だから回復も速かったのだろう。それに舞台に立つ人間は、一般人には計り知れない部分を持っている。すごい根性というのか、体調が悪くても、舞台に立つと絶対にそれを見せない。

ある狂言を観たときのこと、主役の狂言師はいつもどおりに演技してセリフを言って踊っていた。大きな振りとビンビンによく響く太い声、観客は笑って盛り上がって大喝采で終わった。しかし終演後、彼は病院へ直行した。彼は40度の高熱が出ている状態だったという。

ウィルドーが復帰した姿を見て、観客である私のテンションも一気に上がった。そうすると、心なしかクーパー君の踊りも今までとは違うように見えてくる。第一幕でヴァルモンがトゥールヴェル夫人を鋭い目つきで見つめながら、セシルに手紙を渡そうとするシーンでのソロ。

踊りが大きい、ダイナミック、丁寧、きっちり、そしてビシッ!とキめる。粗さがない。強いオーラと観客に挑戦してくるような、恐いほどの迫力。今日はノリノリだ。ウィルドーの復帰で、クーパー君もテンションが上がっているに違いない。

第二幕、ヴァルモンとトゥールヴェル夫人が結ばれるシーンでのデュエット。トゥールヴェル夫人はヴァルモンに出て行くように命じる。しかし次の瞬間には、去ろうとするヴァルモンの背中にすがりつく。くずおれるトゥールヴェル夫人。ヴァルモンは彼女をゆっくりと抱き起こす。そこであの、ちゃ〜らら〜、というヴァイオリンのソロが流れる。

ナターシャ・ダトンのトゥールヴェル夫人も魅力的だけど、でもクーパーとウィルドーが踊ると、やはりこれほど息が合って、タイミングがバッチリ、というペアは滅多にいないんじゃないか、と思ってしまう。

回転しながらジャンプするウィルドーを、クーパーが空中でがっしりとつかむ。クーパーが頭上でウィルドーをリフト、それから彼女を肩まで落として回転する。クーパーがウィルドーを抱きかかえ、ウィルドーは最初は両脚をすくめた姿勢で振り回される。次にクーパーは間髪置かずに彼女を逆方向に振り回す。彼女は絶妙のタイミングで片脚を一気に伸ばす。美しい円盤形が描かれる。

トゥールヴェル夫人が死ぬシーン、ウィルドーはバレリーナなのに演劇系の演技をする。これが彼女の最も大きな特徴である。踊りはバレエで演技は演劇。ヴァルモンに裏切られたと思ったトゥールヴェル夫人が、泣きじゃくりながら神の許しを請うシーン、ヴァルモンの短剣を抜き取ってからの彼女の仕草と表情、これはやっぱりウィルドーのほうが私は好きなの。ごめんナターシャ。

ウィルドーの舞台人根性、彼女の踊りと演技の魅力、クーパーとウィルドーのパートナーシップの完璧さ、それらに素直に感動した今日の舞台であった。明日の東京公演楽日に向けて、こちらも気分が高まる。

でもやっぱりチャウさんですから一言。風土のまったく違う異国で、しかも一年のうちで最も危ない季節に、極端に少人数の出演者で異常に過密な公演スケジュールをこなすことは、出演者たちにかなり大きな身体的・精神的な負担をかけるのではないでしょうか。クーパー君は座長として、そういうリスクも考慮に入れるべきだと思いました。


2005年2月13日

「危険な関係」2月13日公演。ヴァルモン子爵:アダム・クーパー、メルトイユ侯爵夫人:サラ・バロン、トゥールヴェル夫人:ナターシャ・ダトン、ロズモンド夫人:マリリン・カッツ、ヴォランジュ夫人:ヨランダ・ヨーク・エドジェル、セシル:ヘレン・ディクソン、ダンスニー:デミアン・ジャクソン、ジェルクール伯爵:リチャード・クルト、プレヴァン:サイモン・クーパー。

私はこの舞台を非常に気に入ったのですが、それでも疑問に思う点がまったくないわけではありません。前に書いたダンスニーのキャラクターもそうですが、他にもあります。今回はそれを主に書いていきたいと思います。

初日から数日をおいて観てきて、手直しされている箇所が多くあります。それはほとんどがパントマイムの部分です。観客に分かりにくいところは、既にあったマイムを強調したり、新たなマイムを加えたりしています。

ラクロの原作で述べられていない部分については、彼らなりの解釈によって手直しして、若干の変更がなされています。たとえばヴァルモンがセシルと無理に関係を持った以後の、ふたりの関係の描写(第二幕最後)や、ヴァルモンが死に至った経緯や、ヴァルモンの死後、メルトイユ夫人がどうなったのかなどについてです。

ですが、あらためて強調されたり、新たに補われたマイムは、すべて原作に忠実に沿ったもので、勝手な暴走はしていません。(ストーリーについては、原作と異なっている部分がいくつかありますが、これは舞台で上演するということの制約を考慮した上での変更と思われます。)

もともとあったマイムを強調し、新たなマイムを補ったことで、ストーリーは初日に比べれば、かなり分かりやすくなりました。ただし、それでもうまく繋がらない箇所も残されています。

あくまでクーパー君が主張するところの、「原作を読んだことのない人にも分かる舞台」という前提に立てば、たとえばセシル、ヴォランジュ夫人、メルトイユ侯爵夫人、ヴァルモン、ダンスニーの間を行きかう、赤いリボンのついた鍵が何なのか、舞台を見ただけではまったく分かりません。

ダンスニーがセシルと夜にこっそりと会う場面で、ダンスニーはあの鍵を使って扉を開けて入っていきます。これによって、あの鍵はセシルの部屋の鍵だと辛うじて分かります。でも、観客の注意がセシルに向いている場合、ダンスニーのこの仕草は見逃される可能性が大きいと思います。

ヴァルモンに襲われて、セシルは扉を開けて外へ逃げようとします。でも扉は開きません。ヴァルモンは鍵をセシルに見せて、鍵は閉めたからもう逃げられないよ、とあざ笑います。ここでもあの鍵がセシルの部屋の鍵だと分かります。

でも結局は、冒頭のシーン、セシルが鍵を母親のヴォランジュ夫人に手渡した時点で、それが何の鍵なのか分からないと、あの鍵をなんで登場人物たちが盛んにやり取りするのか、その意味が分からないのです。

それから最も大きな問題は、やはりヴァルモンがセシルを強姦する場面です。このシーンで第一幕が終わります。観客の拍手はまばらです。なぜかというと、あの息を呑むような凄絶な迫力あるシーンに拍手すべきだとしても、女性を強姦するという残酷なシーンに拍手すべきかどうか、私たちには判断がつきかねるからです。

もしクーパー君が、軽い気持ちで、強姦シーンなら迫力あるし観客に絶対ウケるな、とかいう意図であのような描写をしたのなら、私はクーパー君を軽蔑します。しかし、ここで避けられない問題が出てきます。それは、ラクロの原作ではこの場面はどう述べられているか、ということについてです。

原作は書簡体ですので、この場面はヴァルモンのメルトイユ侯爵夫人宛ての手紙、そしてセシルのメルトイユ侯爵夫人宛ての手紙の中で描写されています。それによると、セシルはヴァルモンに脅されたりなだめられたりして、ヴァルモンに抱かれるわけです。

ヴァルモンが言うには、結果として彼とセシルはお互いに「満足し」、ヴァルモンは次の密会の約束まで取り付けます。一方セシルも、彼女はヴァルモンを愛してはいないけれども、それでも彼を愛しているように感じられたときがあった、と告白しています。

原作にあるヴァルモンとセシルの言い分を信じるなら、あれは強姦ではなく和姦であった、というふうにも解釈できるのです。ですが、ここで更に厄介な問題が出てきます。彼らはすべて手紙で自分の行為や心中を述べています。それを全面的に信用していいのでしょうか。

たとえばフローベールとかなら、登場人物の心理を客観的に描写してくれたのかもしれませんが、ラクロの原作は書簡体です。手紙は嘘をつくものですし、登場人物自身の言い分など信用はできません。

ヴァルモンは強姦を自分に都合よく解釈しているだけではないか?セシルは強姦されたショックを和らげるために、あるいは自分の体が生理的に反応してしまったことを、ヴァルモンへの愛情と誤解しているのではないか?こうした疑問が出てきます。

もっと言うなら、原作者であるラクロの女性観はどうだったのか、ということも考える必要があります。もしラクロが、「女は強姦されても快感を感じる」、「嫌よ嫌よも好きのうち」的な偏見を抱いていて、強姦された直後のセシルの心情をあのように書いたのなら、これはラクロの女性観に問題があります。

現代的な視点から見れば、ヴァルモンの行為は強姦に他ならない、とクーパー君は判断したのだと私は思いたいです。現に彼は、「マイヤリング」でのルドルフとシュテファニーとの初夜を、「妻に暴力を振るった上での強姦だ」と説明しています。

でもそうなると、なぜセシルがヴァルモンの部屋を自ら訪れて、ヴァルモンとのセックスを楽しむようになったのか、またヴァルモンを愛して優しく接するようになったのか(第二幕、トゥールヴェル夫人の死後)、その途中経過が抜けていて不可解です。第二幕の冒頭では、セシルは明らかに傷ついていて、顔も上げられないくらいです。

途中経過といえば、原作にもありますが、メルトイユ侯爵夫人がセシルに対して、ジェルクールとヴァルモンとどちらがマシか?と選択を迫り、ヴァルモンに部屋の鍵を渡して、これからも彼との関係を続けるように唆す場面くらいです。セシルは結局ヴァルモンに鍵を渡しますが、それでも彼への嫌悪感を露わにしています。

もしクーパー君が「誰にでも分かる舞台」を目指しているのなら、こういう点は要改善だと思います。もっとも、私は以前にも書きましたが、「誰にでも分かる舞台」思想など幻想に過ぎないと考えています。まあこれは意見の相違です。クーパー君にはぜひ、私のこうした偏屈な考えを覆してほしいと思っています。


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