Club Pelican

Diary 19

2005年2月11日

「危険な関係」2月11日公演。ヴァルモン子爵:サイモン・クーパー、メルトイユ侯爵夫人:サラ・バロン、トゥールヴェル夫人:ナターシャ・ダトン、ロズモンド夫人:マリリン・カッツ、ヴォランジュ夫人:ヨランダ・ヨーク・エドジェル、セシル:ヘレン・ディクソン、ダンスニー:デミアン・ジャクソン、ジェルクール伯爵:リチャード・クルト、プレヴァン:バーネビ・イングラム。

今日はクーパー兄、サイモンがヴァルモン役を担当した。そしてトゥールヴェル夫人役もナターシャ・ダトン(セシルのダブル・キャストの1人)で、これも初見である。

ヴァルモン役とトゥールヴェル夫人役は、最初からサイモン・クーパーとナターシャ・ダトンを加えたダブル・キャストでよかったのではないかと思う。この舞台は「アダム様おステキ〜!」という性質のものではないので、ダブル・キャストでも何ら問題はない。

でもなにせ「世界初演」だ。この手の公演には二の足を踏むのが当然の反応である。しかも外国のカンパニーが日本で世界初演?なぜ地元で初演しないの?と不思議に思うのが普通だ。なので、最初はアダム・クーパーとサラ・ウィルドーの知名度で客を釣るしかなかったことは理解できる。でも蓋を開けてみれば、結局は誰がヴァルモン役で誰がトゥールヴェル夫人役か、ということはほとんど関係なかった。

こういう言い方は失礼だけれど、「アダム様オン・ステージ」を期待して観に来た人は、この舞台にはあまり興味が持てないのではないかと思う。これは客層を見れば一目瞭然だし、それに他の理由でもそう(これは今は書きません)。

クーパー君は嬉しいのか、それとも拍子抜けしたのかは知らないが、これはとても好ましい状況の変化ではないかと私は思う。去年、2004年の「オン・ユア・トウズ」日本公演にやって来た観客の多くは、アダム・クーパー目当てだったはずである。少なくとも私はそうだった。

でも今回は、観客は「アダム・クーパー」を観に来ているのではなく、「危険な関係」という舞台を観に来ている。アダム様熱烈歓迎一生ついていきます奴隷と呼んでくださいファンの私でさえも、奇妙な感覚がある。もちろんクーパー君が出演するというから、彼が演出と振付に関わっているというから、私はこの公演を観ている。それは確かだ。

でも、この舞台はアダム・クーパーがいなくても充分に面白い。音楽がいい。効果音がいい。舞台美術がいい。演出がいい。振付がいい。出演者も全員すばらしい。クーパーとレズ・ブラザーストンによる原作や登場人物の解釈についても、意見の違いはあっても、終演後に一緒に観た友人と議論になるほど考えさせられる点が多くある。ただ単につまんない舞台だったら、こんなことにはならない。

さてクーパー・ブラザーズ兄サイモンのヴァルモンは、・・・といっても、クーパー弟アダムのヴァルモンについて、私はほとんどなーんにも書いてないから、いきなり比較するのは唐突だ。それにたった1回観ただけでふたりの違いが分かるはずがない。でも気づいたところを大まかに書いていこう。一緒に観た友人の意見も引用することにする(友よ、無断だが許せ)。

アダムのヴァルモンは全幕を通じてほとんど表情がない。ただ第一幕の最後でセシル・ヴォランジュを強姦するシーンでは、ある瞬間(気をつけていないと見逃す)に、悪辣で残酷な本性を露わにした表情をする。

また第二幕の最初のほうで、トゥ−ルヴェル夫人に恋心をつづった手紙を渡すシーンでは、クーパー君の表情の変化に注目である。最初はいくぶん分かりやすい大仰な表情をする。いかにも悪人でわざとらしい。でもある瞬間を境に微妙に表情が変わる。

ここでヴァルモンの心の中で何かが変わり、彼は自分でそれに動揺するわけだが、でもクーパー君の表情の変化は微かである。あとは彼のトゥールヴェル夫人に対する振る舞いというか、ヴァルモンの女性への感情表現の仕草が変化する。でもこれもさりげないので、集中してよく見ていないと分かりづらい(そこがいいところでもあるんだけど)。

対する兄ちゃんサイモンは表情が豊かで分かりやすい。アダムはほぼ無表情で、ジェスチャー(定められた振付やパントマイム以外の身振り)もほとんどしない。サイモンはアドリブでジェスチャーをすることが多かった。

表情については、サイモンのヴァルモンはとぼけた感じというか、人のよさそうな飄々とした顔を普段はしている。ジェスチャーもこれにともなったもので、欧米人がよくやるユーモアのある仕草をしていた(肩をすくめて両手を広げるとか、目を大きく開けて口をへの字に曲げて首を傾げるとか)。

サイモン兄ちゃんは、眉根のあたりはアダムそっくりだが、眉の中間から目じりにかけてはニコラス・ケイジ入っている(友人の表現による)。ついでに髪の毛もニコラス・ケイジそっくりだ。だからとても優しそうな顔をしている。

だから表情を変化させるとまさしく激変する。特に第一幕でセシルを襲うシーンは凄かった。あのお人好しそうな顔が、一気にケダモノの顔になるんだから。ここはアダムより迫力があった。

また第二幕の悪夢のシーンでも、悪夢にうなされるところでは、首を盛んに左右に振って苦しげな表情をしていたし、精神的に追いつめられたところでは、目を閉じて天を仰ぎ、口を叫ぶように開けていた。それからふと我に返った表情になって、トゥールヴェル夫人を追いかける。ここもアダムより分かりやすかった。

踊りについては、サイモンはアダムよりも背が高い。よって手足も長い。ヴァルモンがソロを踊るシーンはほんのわずかだが、とてもダイナミックだった。ダイナミックなだけではない。踊りの動きのひとつひとつがとても丁寧で正確である。スピード任せにせず、ゆったりした一定速度できっちりと踊る。

アダムの踊りは時に粗い。クラシック・バレエの踊りだと緊張するのか、また振付者やバレエ・マスターに注意されるのか、きっちりと丁寧に踊る。しかしこうして自分でやりたい放題にできるときは、ちょっと待て、と言いたくなるような、ちょっと粗いときがある。これはアダムの性格的なものだろう。そんな細かくこだわることねえや、と判断したときに粗くなるのだと思う。

でもサイモン兄ちゃんは真面目だ。きっちりして丁寧でダイナミックだった。さすがはランバート・ダンス・カンパニーのベテラン・ダンサーである。はっきり言って、ヴァルモン役はアダムとサイモンとダブル・キャストでよかった。

キャラクター解釈の違いとか、表情やジェスチャーの違いとかについては、これは優劣や是非を論ずるような問題ではない。出演者によって違う。ただそれだけのこと。サイモンがヴァルモンでも、文句を言う観客はたぶんこの舞台ではいないと思う。もしイギリスで上演するのであれば、ぜひともダブルでお願いします。

トゥールヴェル夫人役のナターシャ・ダトンについても同じである。サラ・ウィルドーのトゥールヴェル夫人を先に見て、私の中でそれが基準になってしまったため、ダトンのトゥールヴェル夫人については、最初はちょっと違うんじゃない?と思った。

サラ・ウィルドーのトゥールヴェル夫人は敬虔で信仰深く、表情はあからさまに感情を露わにせず、態度も謙虚で慎み深い。ナターシャ・ダトンのトゥールヴェル夫人は、ほがらかで爽やかな雰囲気があり、表情もはっきりしている。

ヴァルモンがトゥールヴェル夫人の部屋を訪れるシーンで、ウィルドーのトゥールヴェル夫人は、最後までヴァルモンへの愛情と道徳心との間で苦悶する。ダトンのトゥールヴェル夫人はヴァルモンへの愛情を隠さず、ヴァルモンに抱きしめられて嬉しげな表情を浮かべるが、次の瞬間にはあわててヴァルモンを突き放す。

つまりウィルドーのトゥールヴェル夫人は、自分の本当の感情と道徳心が混在していて、それが表情に同時に出てくる。一方、ダトンのトゥールヴェル夫人は、自分の感情と道徳心が交互に姿を現すわけである。だからダトンは表情がくるくる変わる。

終演後、私がダトンのトゥールヴェル夫人を、あれでいいんかいな?と一緒に観た人に言ったところ、その人は「いいんじゃない?ああいうアホっぽいトゥールヴェル夫人も。信仰深い人が、必ずしもみな聡明だとは限らないでしょ。だから裏切られたときのショックも大きかったんじゃない?」と答えた。私はそれでなんとなく納得したのである。

あと、ダトンはウィルドーに負けず劣らずの美女である。こういうのも大事な要素だ。ほんと、彼女には見とれますよ。世の中にこんな美女がいるの?と思うくらい美しい。踊りのテクニックも細部を比べればウィルドーには及ばないが、別に気にならない。そういう演目ではないからね。

ああ、それで思い出した。サイモン兄ちゃんはね・・・確かにクーパー君とは違った個性の持ち主で、踊りはきっちりと丁寧で真面目だけど、テクニック的にはクーパー君には及ばないところがある。兄ちゃんがロイヤル・バレエに加わらなかったのは、こういう事情もあったのかもしれない。

ナターシャ・ダトンの話に戻る。トゥールヴェル夫人が死ぬシーンだけど、細かいことは書けませんが、踊り(というのか?)ももちろん、トゥールヴェル夫人の仕草や表情は、絶対に集中力を切らさないで見なければならない。

前にも書いたけど、サラ・ウィルドーのトゥールヴェル夫人は、死ぬシーンでは実に悲愴な表情をする。たぶんエキサイトしていたのだろうけど、唸るような声まで上げてヴァルモンを威嚇し、美しい顔で泣くのではなく、顔を醜くなるぎりぎりまでくしゃくしゃにして泣き、壮絶な最後を遂げる。

私がダトンのトゥールヴェル夫人をすごいと思ったのも、やはりこの死ぬシーンであった。ウィルドーのトゥールヴェル夫人が、最後まで正気を保ちつつ絶望して死んだのとは違い、ダトンのトゥールヴェル夫人はほとんど発狂している。ダトンのはっきりした表情が、ここで威力を発揮する。

ダトンはヴァルモンに向かって、大きく目を見開いてケラケラ笑いながら死ぬ(笑い声は出さないが)。黒髪を振り乱して、うう〜、書けませんが、とにかくすごい死に方をする。絶望と罪の意識の末に悲しい表情で死ぬのも、狂って笑いながら死ぬのも、ともに凄まじい。

よってヴァルモンに続いて、トゥールヴェル夫人もダブル・キャストでやると面白いと思う。出演者によって違う解釈や表現が見られるのは非常に興味深い。できればメルトイユ侯爵夫人も。


2005年2月9日

「危険な関係」2月9日公演。ヴァルモン子爵:アダム・クーパー、メルトイユ侯爵夫人:サラ・バロン、トゥールヴェル夫人:サラ・ウィルドー、ロズモンド夫人:マリリン・カッツ、ヴォランジュ夫人:ヨランダ・ヨーク・エドジェル、セシル:ヘレン・ディクソン、ダンスニー:デミアン・ジャクソン、ジェルクール伯爵:リチャード・クルト、プレヴァン:サイモン・クーパー。

今日から青山劇場での公演である。青山劇場は渋谷駅からでも表参道駅からでも徒歩およそ10分。ホールに入ってみて、なんだか舞台と客席との距離が遠いな、と思った。

でも公演が始まってみると、私はそんなに前の席に座っていたわけではないのに、むしろゆうぽうとよりも舞台が近く、出演者たちのパフォーマンスも生々しく感じられた。ここはいい劇場だと思う。

あ、そうそう、「危険な関係」のフォトブックが発売されていました(1,800円)。写真はすべてカラーで全32枚、ロズモンド夫人が劇中で歌うアリアの邦訳もついています。小部数発行でしょうから仕方ないのかもしれませんが、内容に比べて値段がちょっと高すぎる気がします。買う前に見本をきちんとご覧になったほうがいいかもしれません。

前回の続き。セシル・ヴォランジュとダンスニーが踊るときの音楽も似たような旋律である。そして踊りのタイプはクラシック・バレエの要素がかなり強い。だから他のキャラクターたちのダンスとは明らかに色合いが違う。

セシルはこの舞台で唯一、トゥ・シューズを履いてポワントで踊る。ポーズ、ムーヴメント、ステップもクラシック・バレエ系の技術がてんこもりである。ダンスニーと踊るシーンでは、メルトイユ侯爵夫人とヴァルモンの手引きで、ふたりが夜にこっそりと会う場面での踊りが、私はいちばん好きである。

最初のハープシコードの踊りも「めくるめく恋人たちの愛」という雰囲気でよいけれど、ちょっとタイミングを合わせるのが大変そうだ。でもアイディア自体はとてもすばらしい。あれはどうやって動かしているんだろう(何を動かしているかって?それはまだ秘密です)。

ダンスニーとセシルが夜にこっそりと会う場面での踊りは、まずダンスニーがコルセットにシュミーズを着ただけのセシルに、そっと自分の上着を着せてやる仕草がいい。ヴァルモンは脱がせる専門だし。セシルがその前に、ほとんど下着だけの自分の格好を恥じらってうつむく演技も愛らしい。

セシルは男物の裾の長いぶかぶかの上着を着て、ダンスニーとパ・ド・ドゥのアダージョみたいな踊りを踊る。セシルの格好は奇妙なはずなんだけど、でもそんなふうには全然みえない。このときの音楽が少し物悲しい感じのする静かで美しい音楽で、始終重くて暗い雰囲気が立ち込めているこの舞台では、唯一ホッとする場面である(でもこの後にそんな気分は吹っ飛ぶんだけどね)。

ふたりとも手足をしなやかに伸ばして、また流れるような線を描きながら旋回してとても美しい。私が特に好きなのは、ダンスニーに後ろから両脇を支えられたセシルが、片脚を最初はちょっとだけ、次にやや大きく上げるところ、セシルがダンスニーに手を取られてピルエットをし、それから今度は逆方向にピルエットをするところ、それからふたり並んで同じ振りを踊って、ふたり同時に軽く飛んで両足を交差させるところ。

トゥールヴェル夫人とヴァルモンが結ばれるシーンでも、ふたり並んで同じ振りを踊るところがある。私は男女ふたりが並んで同じ振りを踊るのが、作品を問わず大好きである。なんでか分からないけど、踊りの男女差が分かるのも面白いし、それ以上にドラマティックな効果が高まるように感じられるから。

だけど、セシルの踊りは途中から別のタイプの踊りに変化する。第一幕の最後で、ヴァルモンに悪逆非道な仕打ちを受けるときの踊りである。あれはまっすぐに両脚を伸ばした姿勢で、思い切り開脚したり、ヴァルモンにぶんぶん振り回されたりする振りが多い。

このときのセシルは必死で抵抗するんだけど、第二幕の最後では自分からヴァルモンの部屋へやって来る。ヴァルモンはトゥールヴェル夫人を死に追いやったことで自暴自棄になっている。ヴァルモンはセシルを抱くんだけど、このときの振付が、第一幕最後の振付とよく似ている。

違うのは、セシルが自分からヴァルモンを誘って、ヴァルモンに抱かれることをよろこんでいるところである。同じ振付でも、そのキャラクターの変化に合わせて微妙に振付を変えている、というのはこういうところである。

セシルとダンスニーはダブル・キャストで、セシルはヘレン・ディクソン、ナターシャ・ダトン、ダンスニーはデミアン・ジャクソン、ダニエル・デヴィッドソン。4人ともすばらしい。キャラクターの解釈にも少し違いがあるようだ。

ヘレン・ディクソンのセシルは、真面目で母親のことを極端に恐れているけど、ナターシャ・ダトンのセシルは、悪戯っ子みたいな感じで母親の目を盗んでは悪ふざけをし、叱られても懲りた様子がない。ダンスニー役のジャクソンもデヴィッドソンもすばらしい。ピルエットするシーンなんて、上着の裾が美しくひるがえって、おおお〜っ、と目を奪われる。

でもこの舞台でのダンスニーのキャラクターについては、私はインパクトが弱いし説明不足だと思う。あまりに好青年すぎるからである。セシルとは純愛を保ちながらも、最後でメルトイユ夫人に一方的に誘惑されて彼女と関係を結んでしまう、というふうにみえる。まるでダンスニーは心に一点の曇りもない、内気で純粋な青年のようだ。

原作を読んで、私がいちばん好意的な興味を持ったのはメルトイユ侯爵夫人で(みなさんそうじゃないですか?)、いちばん嫌いなのはダンスニーであった。ヴァルモンは確信犯的な悪人だが、ダンスニーは偽善的で、自分のことを正しい人間だと思っているからである。

ダンスニーは確かにセシルに恋心を抱き、彼女にラブレターをせっせと書いて、なんとかふたりで会う算段をつけようとする。しかし、彼は同時にメルトイユ侯爵夫人との関係も続けており、メルトイユ侯爵夫人にも熱烈な恋文を書き送っているのである。

ヴァルモンはメルトイユ侯爵夫人への手紙で、ダンスニーの女性観についてこう書いている。「第一に彼の考え方はこうらしいのです。未婚の女は失うものが多いだけに既婚の女よりも大切にあつかわねばならない。ことに彼の場合のように、娘のほうが男よりはるかに金持ちであれば、娘がその男と結婚するか、さもなくば世間に顔出しできなくなるようなことをするのは、男として決して許されないと考えているのです。」(伊吹武彦訳「危険な関係」)

原作では、最後にヴァルモンが死んで一連の出来事の真相が明らかになる。セシルはショックで尼僧院に駆け込み、そのまま引きこもってしまう。ヴァルモンとセシルが関係していたことを知ったダンスニーは、セシルの母親のヴォランジュ夫人に宛てた手紙で、自分はもうセシルを愛していないことを告げる。

「私にはもう恋はございません。無法にも裏切られた恋心など、みじんも持ってはおりません。それゆえヴォランジュ嬢の弁護をいたしますのも、けっして恋心からではございません。・・・ (中略) ・・・ ヴォランジュ嬢のことをあきらめるだけで私には十分でございます。憎むのはあまりに苦しすぎます。」(同上)

こんな言い草ってある?自分はメルトイユ侯爵夫人とセシルと二股かけてたくせに、セシルがヴァルモンと関係していたことで、彼はセシルに「無法にも裏切られた」と言っているんですよ。更に、未婚の女は既婚の女よりも大切に扱わねばならない、って、これはメルトイユ侯爵夫人に超失礼な考え方です。

メルトイユ侯爵夫人を捨てたジェルクール伯爵は「修道院教育万能論」、「金髪貞淑論」の持ち主で(メルトイユ侯爵夫人はこれらを「ばかげた」と形容している)、それを基準として結婚相手にセシルを選んだ。ダンスニーの女性観もジェルクールに負けず劣らずばかげている。

というわけで、今回の舞台でのダンスニーはあまりにいい子な坊ちゃんで、原作にあるダンスニーのこうした偽善性がまったくみられない。

ロズモンド夫人がヴァルモンとトゥールヴェル夫人の間にある複雑な感情に気づいていたり、娘のセシルに対して厳格一直線なはずのヴォランジュ夫人が、セシルの悲しみに動揺したりするところはきちんと舞台で出てくる。それに比べると、ダンスニーのキャラクターはちょっとお約束すぎて物足りない。

舞台以外のことも少しは書きましょう。ゆうぽうと公演での初日、空席が目立ったのでかなり心配した。でもクーパーのファンなら観に来るだろうけど、特にクーパーのファンではない人で、去年の「オン・ユア・トウズ」を観て「あのクーパーの振付ならまた観たい」と思う人は少ないだろうから、まあ仕方ないかと思った(ある人は「オン・ユア・トウズ」も初日はこんなもんだった、と言っていた。私は「オン・ユア・トウズ」の初日は観てないので分からない)。

私は「危険な関係」の初日を観て、これはすごい作品だ、これを観ないなんて勿体ない、と感じた。でも日を追うごとに観客が明らかに増えていった。TBSがしつこく宣伝した効果もあるだろうし、あと、口コミで評判が徐々に広まっていったのではないかと思う。

なんでかというと、客席には招待客と思われる有名芸能人もいたが、たとえばワイドショーとかバラエティ番組とかの再現ドラマに出るような、有名ではないけど地道な活動を続けている俳優さん(←小劇場系が多い。下北沢とか)をちらほら見かけた。名前は分からないけど、いかにも舞台関係者です、という風体の、かなり手ごわそうなおっさん・おばさんも多くいた。

ダンス関係者もいたのだろうけど、それよりも映画や演劇の関係者のほうが多かったのではないかと思う。これは私にメールをくれたみなさんが教えてくれたこととも符合している。また原作が有名で、今まで何度も映画化・舞台化されてきただけに、そっち繋がりで観に来た人々も多かったようだ。人づてに聞いたことには、ほとんどの人が面白かった、と言っていたそうである。こういう感想を聞くのは嬉しいものである。


2005年2月6日

「危険な関係」2月6日公演。ヴァルモン子爵:アダム・クーパー、メルトイユ侯爵夫人:サラ・バロン、トゥールヴェル夫人:サラ・ウィルドー、ロズモンド夫人:マリリン・カッツ、ヴォランジュ夫人:ウェンディ・ウッドブリッジ、セシル:ヘレン・ディクソン、ダンスニー:デミアン・ジャクソン、ジェルクール伯爵:リチャード・クルト、プレヴァン:サイモン・クーパー。

クーパー君は、感情の表現にはダンスが適している、と往々にして言うし、サラ・ウィルドーも、感情をダンスで表現することがいちばん好きだ、と言っていた。しかし、私には今ひとつピンとこなかった。もちろん表情での演技なら、その登場人物が今どんな感情を抱いているのかは分かりやすいのだが。しかし今日の公演を観て、踊りで感情を表現するとはどういうことなのか、ようやく少しだけ分かった気がした。

私は今回のクーパー君の振付が非常に気に入った。その主な理由は、いい意味で単純で分かりやすいからである。今だから言ってしまうが(もう言ったっけ?)、「オン・ユア・トウズ」の振付は、わるい意味での単純な、しかもいささか自己中心的な振付であった。力を入れたな、という部分と手を抜いたんじゃねえか、という部分がはっきりしていたし、その力を入れた部分とは、クーパー君自身が踊るシーンだったように感じられた。

今回の振付では、キャラクターの性格に合わせて踊りのタイプが異なっているし、彼らの感情に合わせても踊りのタイプが異なっている。そして同じ振付であっても、別々のキャラクターが踊ると微妙に異なっているし、そして同じキャラクターが同じ踊りを繰り返し踊っても、そのキャラクターの心情の変化によって微妙に異なるように振り付けてある。

でも振付者自身にしか意味の分からないような、難解で哲学的(笑)な振付では決してない。実に単純明快で、普段の生活で私たちもするような動作や仕草、というのは言いすぎにしても、でも私たちが日常的に抱く感情を踊りにすればこうなるのか、といった感じである。

そうした日常の動作をダンス化したような振付と、いろんなタイプのダンスの振付が結びついている。境目がはっきりと分かるときもあるけれど(特にクラシック・バレエ)、たいていは自然で気にならない。

それに身振りや仕草や表情が加わって、言葉のない感情表現とストーリーの進行が成り立っている。身振りや仕草もみな単純なもので、バレエ独特のマイムは一切ない(念のため申し添えておきます。私はバレエのマイムに否定的なのでは決してありません。むしろ大いに興味を持っています)。

またいかにもロココ期のおフランス貴族風な振付でも、それはそういう雰囲気を出すことが必要な場面で出てきて、しかも陶器製のオルゴール人形みたいに無機質な踊りであり、その中に人々の心の中にある複雑な感情を示す振付を紛れ込ませている。

音楽をオリジナルにしたのはいい選択だったと思う。作曲者自身と打ち合わせて、音楽と踊りを完全に連動させることができる。音楽に踊りが合っているのはもちろん、またどうやらキャラクターの性格、心情、その場の雰囲気、出来事を示す音楽が決まっているようである。

だから同じ旋律が形を変えて繰り返し出てくるが、そういうときは同じキャラクターが踊っていたり、違うキャラクターでも同じ感情を示していたり、いま起きていること、またはこれから起こることの性質を表していたりする場合がほとんどである。

なにせ初演だし、これから観る人もたくさんいるんだから、と私は思い、今まで舞台の具体的な描写は避けてきた。でも「ネタバレ」すれば観たい気が失せるような作品は、所詮その程度のものなのだ、という結論に達したので、心に残ったシーンを書いていくことにする。

サラ・バロン演ずるメルトイユ侯爵夫人は、男性と絡み合う場面になると、なんと男性の腕をねじり上げて足で押さえつけ、嘲笑を浮かべながらセックスを強要する。ジェルクール伯爵、ヴァルモン、ダンスニー全員に対してそう。

そんな彼女に嫌気がさして、または恐怖を感じて逃げようとする男性に、彼女はしがみついて決して離れようとしない。最後の場面でダンスニーと絡むシーンは、彼女の男性との関係の過程がどんなものかよーく分かる。

またバロンの表情は本当に見応えがある。表情が大仰ではないだけに、あの目つきには凄みがある。またとにかく変貌ぶりが凄まじい。憎しみに顔がひきつるのを無理に抑え、それから一転して優雅な微笑を浮かべてみせる。

久しぶりに再会した元の恋人、ジェルクール伯爵に手への接吻を強要するシーン、ヴォランジュ夫人、セシル、ジェルクール伯爵が庭に出ている間、ひとり広間に残って感情を爆発させた踊り(これぞ怒りの原点と思わせる踊り)を踊った後、肩を震わせてうつむき、それから顔を上げるシーン、トゥールヴェル夫人に本気で恋したヴァルモンに迫って突き飛ばされ、四つん這いのまま動物みたいにヴァルモンを睨みつけるシーンは絶対にハズせない。

あとはやはり最後のシーン、死んだヴァルモンに近づいていくメルトイユ侯爵夫人のあの恐ろしい動きとともに、彼女の表情がどう変化していくかは見物である。脇っちょに倒れているクーパー君なんかもうどーでもいいや、って思うくらい、我を忘れて見入ってしまう。ものすごい緊張感がある。また自分の手についたヴァルモンの血で彼女がしたことには心底ゾッとした。

初日の公演(1月22日)の感想で、ロズモンド夫人(マリリン・カッツ)によるバロック・オペラ風レチタティーヴォには実効性が感じられない、と書いた。でも今は考えが変わった。トゥールヴェル夫人(サラ・ウィルドー)が登場するシーンで、遠くからロズモンド夫人がトゥールヴェル夫人に呼びかける歌声が聞こえてくる(「トスカ」でトスカが初めて登場するシーンみたいに)。

最初に私が違和感を覚えたのは、観客が聞いて理解できるわけがないフランス語の、しかも歌を使用することに何の意味があるのか、と思ったからだった。なんだか小ざかしい自己満な演出、という気がしたのである。

観客のほとんどがフランス語を聞き取れないだろうことは、クーパーもレズ・ブラザーストンも当然承知しているだろうから、どうせ大したことは歌っていないとは思った。でも、私は言葉をこんなふうに扱うことは好きではなかった。

しかし今は、まあ歌を一種の音楽とみなしてこういうふうに利用する方法もアリかな、と思うようになった。実はけっこう実効性があったのである。レチタティーヴォで語りかけるカッツのロズモンド夫人に対して、ウィルドーのトゥールヴェル夫人は一切言葉を発せず、すべてボディ・ランゲージとダンスで答える。なんとウィルドーのこれらの動きで、ロズモンド夫人が何を言っているのかだいたい分かるのである。

ロズモンド夫人とトゥールヴェル夫人のやりとりはすべて、一方が歌、一方がボディ・ランゲージとダンスという方法で行われる。それはちょっと不思議な光景で、とても印象に残る。

ロズモンド夫人の歌声は、ヴァルモンが悪夢にうなされるシーンでも音楽とともに使われている。この歌声が非常に効果的で、まさに不気味さや恐怖が倍増する。この悪夢のシーンは、ワタシ的にはかなりツボである。演出や振付に絵画のメジャーなモティーフを用いていると思われ(「悪夢」、「死の舞踏」など)、こういうオタク的な楽しみもある。

音楽で、同じ旋律が形を変えて繰り返し出てくるが、そういうときは同じキャラクターが踊っている、と上に書いた。トゥールヴェル夫人の踊りはその典型である。よく聴いたら、第一幕、黒いヴェールをかぶって登場するシーンで、すでにヴァルモンと愛し合うシーン(第二幕)での旋律が出てきている。

それから彼女が出てきて踊るシーンでは、ほとんど同じ旋律が用いられる。最初は穏やかだけど、ヴァルモンと彼女が関わるたびに、どんどん激しく、ドラマティックになっていって、ふたりが結ばれるシーンで最高潮に達する。彼女の心の変化に合わせて、同じ旋律の音楽も変化していく。

そして最後のシーン、もうトゥールヴェル夫人は死んでいる。ヴァルモンは無表情のまま、怒りに我を忘れて跳びかかってくるダンスニーを軽くかわす。だが次の瞬間、あの旋律がいきなり流れて、背景のガラス窓の向こうに、黒装束の死神(?)に抱きかかえられたトゥールヴェル夫人の姿が現れる。

それを目にしたとたん、ヴァルモンの顔色が変わる。やがてまたあの旋律が流れ、同じようにトゥールヴェル夫人の姿が窓に映る。剣を持って突進してくるダンスニー。ヴァルモンはそこで・・・・・・もう書けません。ほんの一瞬の動作だけど、私はヴァルモンのこの仕草で泣きそうになりました。悪人が罪悪感を抱いてしまったら、もうその人に救いはないのよ。

サラ・ウィルドーの演技には定評があるが、表情はもちろん、彼女のボディ・ランゲージや踊りでの雄弁さはやはり卓越したものがある。上にも書いたように、振付や仕草自体は単純である。最初に登場するシーンと、他の人々がお茶している間にひとりで踊るシーンで、彼女は黒い喪服の裾をひるがえしてなめらかに踊る。ああ、彼女は本当は自由になりたいんだな、と分かる。

自分もヴァルモンに恋心を抱きはじめたことを自覚して泣き崩れ、駆けつけたロズモンド夫人にすがりつくシーンでは、両のこぶしを胸に押し当て、また両腕(前にも書いたけど、メルトイユ侯爵夫人とトゥールヴェル夫人の腕は、彼女たちの本当の感情を表しているらしい)を複雑に交差させ、苦しげで切ない表情をしながら、またもやドレスの裾をひるがえして踊る。

夜、トゥールヴェル夫人はネグリジェの上に黒地に金銀の刺繍が入った美しいガウンをまとっている。ウィルドーはそこでもソロを踊る。彼女の片手は彼女の体を這いずり回る。メルトイユ侯爵夫人のように。彼女は必死になってその腕を叩いて押さえる。彼女はひざまずき、両手を合わせて神に祈る。

だが彼女は床にうつ伏せに倒れ込んで身体を伸ばし、両腕を立てて上半身を起こすという、腕立て伏せみたいなポーズをとる。禁断の恋に悩んでいるのかな〜、くらいに適当に思っていたが、このすぐ後にヴァルモンがやって来て、そこでこのポーズの意味が分かった。もっと具体的な意味を持つポーズだった。

トゥールヴェル夫人がヴァルモンに絶望したときの、ウィルドーの表情は本当に凄惨だ。これも私にとっては絶対に見逃せない。目に焼きついて離れない。あの鬼気迫る壮絶な顔。あんな表情ができる人がいるんですね。ヴァルモン、セシル、ダンスニーについてはまた次回。


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