Club Pelican

Diary 18

2005年2月5日

1月30日公演後に行われたトーク・ショウの概要です。すべて私の記憶に頼って書き起したものなので、間違いや脱落が多くあります。その点はどうかご容赦下さい。

クーパーは「危険な関係」オリジナル・グッズの黒いTシャツと帽子を身につけ、だぼっとした幅広の黒いストリート系ズボン(これは私服らしい)を穿いていた。上はTシャツ一枚なので太い二の腕が丸見え。よしゃあいいのに、相変わらず愛想良くニコニコニコニコ笑って登場。

司会者:今日で11回目の公演になるが、感想は?

クーパー:まずは無事に初日を迎えることができたので一安心した。初日の公演は順調にいった。初日から今まで、大きな流れはもちろん変わっていないけど、細かな部分ではあちこち手直しをしてきている。僕は満足するということがなかなかできない人間なので、これからも変えていく部分があると思う。観客の反応も良く、拍手喝采やスタンディング・オベーションで応えてくれるので嬉しい。

司会者:「危険な関係」を舞台化しようと思った経緯は?

クーパー:以前にジョン・マルコビッチ、グレン・クローズ、ミシェル・ファイファーが出演した映画を観たことがあった。マルコビッチが演じたヴァルモンにとても惹かれて、僕もこの役を演じてみたいと思った。その後、僕が振付の仕事を始めたとき、「危険な関係」を舞台化したいと思いついた。そして5年前からレズ・ブラザーストンとシナリオを書き始めた。この作品は人の感情や人間関係を描いている。僕はこうした面がダンスでの表現に適していると思った。

司会者:上演が実現するまで、さまざまなことがあったと思うが、大変だったことは?

クーパー:いちばん大変だったことは、カネ! (会場大爆笑。クーパー、笑いながら)・・・みんな分かったの?最初、僕はこの作品をイギリスでだけ上演するつもりだった。レズ・ブラザーストンやフィリップ・フィーニー(作曲者)とプランを立てて、まずイギリスのプロデューサー(おそらくカザリン・ドレのこと)に話を持ち込んだ。でもその話は途中でつぶれてしまった。それからスポンサー探しに奔走したけど、なにしろこのセットをみても分かるとおり、この舞台は上演するのに莫大な費用がかかる。果たして僕にそんな大きなプロジェクトを任せられるのかと、みんなは僕を信用することができなかった。でも日本のスポンサーが僕を信頼して上演実現に協力してくれた。本当に感謝している。次の難しい問題はキャスティングだった。僕はこの作品をバレエだけの舞台にするつもりはなかったから、踊れる、演技ができる、歌える、という人材が必要だった。キャストの多くは僕がかつて一緒に仕事をしたことがあった人々で、後の数人はオーディションで選んだ。

司会者:準備にはさぞ時間をかけたんでしょうね?

クーパー:リハーサルは5週間。その間は非常に緊迫したものだった。正直言ってとても大変だった。僕は時に、こんな大きなプロジェクトは僕の手には負えない、と自信を失いかけた。でもその都度、レズ・ブラザーストンやみんなが励ましてくれて、全員で協力していった。

観客:あなたにとってお兄さんはどんな存在か。

クーパー:兄とはとても仲がいい。11歳から18歳まで同じ学校に通っていた。その後は別々のダンスの道に進んだ。兄と共演したのは一度しかなく、この公演で一緒に舞台に立てることがとても嬉しい。兄はイメージが豊かで、いろんな面白いアイディアを出してくれる。2月11日の・・・・・・7時から?(確認するように周囲を見回す)の公演では兄がヴァルモン役として主演するので、どうかみなさんに観に来てほしい。僕も兄のヴァルモンを観るのを楽しみにしている。

観客:最後の場面で、背景の壁に"LIBERTE"と書いてあるが、これはヴァルモンの魂が「自由」になった、ということなのか。

クーパー:そういうふうにも解釈できると思う。ただ、あれはレズ・ブラザーストンがデザインしたものだけど、この物語の舞台はフランスで、このときはちょうど革命勃発寸前だった。あの"LIBERTE"は、物語が終わってからも登場人物たちは生き続けるが、この時代の終わりとともに、あんな歪んだ人間関係のあり方も終わったのだ、ということも表している。でもいろんなふうに解釈できると思う。

観客:セクシーなクーパーさんの踊りを楽しんでいる。私はタンゴやサルサが好きなので、そういう踊りも見せてほしい。(会場笑)

クーパー:(ふざけて眉をひそめる)あなたはラテン系が好きなの?(会場爆笑) 僕もタンゴやサルサは今までの作品の中で振り付けたことがあるので、これからもそういう踊りを取り入れることがあるかもしれない。

観客:難しかった振付と、自分でいちばん好きな振付はどこか。

クーパー:難しかったのはセクシーなシーンのダンス。それから、ドラマの進行とダンスをかみ合わせるのにうまくいかないところがあり、そこを合わせるのに苦労した。自分で気に入っている振付は・・・(強い口調で)全部。すべての踊り。(会場笑)

観客:私はペ・ヨンジュン主演の映画「スキャンダル」しか観たことがない。あの映画はとてもセクシーだけど・・・。(この質問の続きとクーパー君の答えがどうだったのかは、チャウさん記憶が抜けていて覚えてません。)

司会者:ペ・ヨンジュンは知っているか。

クーパー:(しばらく考えてから)知らない。("No."と一言。会場から笑いとともになぜか拍手が起きる。)

観客:私は「オン・ユア・トウズ」も観たけど、あなたはああいう作品と今回のような作品とではどちらのほうが好きなのか。

クーパー:両方。僕は踊るのも好き、歌うのも好き、演技するのも好き。だから踊っては歌い、歌っては演技し、演技しては踊り、踊っては歌い、歌っては演技し、演技しては踊り・・・。(延々と繰り返す。会場爆笑)

観客:ヴァルモンという人物の中で、共感できる部分と共感できない部分は?

クーパー:うーん・・・。(困ったように笑って考えこむ。) うーん・・・。(また考えこむ。会場笑) ヴァルモンに共感できるのは、彼が本当の愛を知ってからの部分。その前の彼にはまったく共感できない。でも、(ふざけてアブない表情)演じるのは楽しいよ〜。

観客:休みはどうやって過ごすのか?またスタミナを保つ秘訣は?

クーパー:休みには何もしない。(会場笑) ただ週に一度マッサージを受けている。それから公演前には「エナジー・イン」を欠かさず飲んでいる。(ジョークで日本の栄養ドリンクやサプリメント食品の類を指しているのだろうけど、どれのことかは不明。) でもサラ・ウィルドーやサラ・バロンと踊っていると、自然とエネルギーが涌き出てくる。

司会者:最後に観客のみなさんにメッセージを。

クーパー:この作品は、楽しんでもらいたいと同時に感動もしてほしい。僕をサポートして下さるみなさん、長年にわたって応援してくれているみなさんに心から感謝している。

クーパー君は質問に答えるとき、マジメな言葉とともにジョークを添えることを欠かさない。表情も上演中とは一転、始終ニコニコと笑い、しかし意表を突いた質問にはたじろぎ、照れ笑いをしたり、答えに窮して考えこんだりと、正直で素直な面をみせた。テレビなどでのインタビューではおなじみの彼の態度であるが、素のクーパー君を初めて目にした観客も多かったらしく、帰り際には「感じのいい人」、「好感が持てる」などという声が多く聞かれた。

先日、関西で放映されたという特番の内容は、浅葱さんのサイト Dancing in the Breeze にリポートが掲載されている。インタビュアーはなんとわかぎゑふで、彼女は非常に興味深いコメントをしている。特に第一幕終了後の観客の反応については、私もまったく同感。


2005年1月30日

「危険な関係」1月30日公演。ヴァルモン子爵:アダム・クーパー、メルトイユ侯爵夫人:サラ・バロン、トゥールヴェル夫人:サラ・ウィルドー、ロズモンド夫人:マリリン・カッツ、ヴォランジュ夫人:ヨランダ・ヨーク・エドジェル、セシル:ナターシャ・ダトン、ダンスニー:ダニエル・デヴィッドソン、ジェルクール伯爵:リチャード・クルト(?)、プレヴァン:バーネビ・イングラム。

「危険な関係」では、メルトイユ侯爵夫人、トゥールベル夫人、セシル・ヴォランジュという、一見するとそれぞれ違う個性を持っている女性たちが登場する。メルトイユ夫人は狡猾で淫乱で邪悪、トゥールベル夫人は貞淑で純粋、セシル・ヴォランジュは無邪気で天真爛漫、というふうに異なってみえる。

しかし、彼女たちの背景はみな同じである。修道院で、または母親によって厳格に育てられ、愛のない結婚を強いられ、男性によって不幸な目に遭わされる。それぞれが不合理な自分の運命を受け入れながらも、ある女性は独特の方法で自分を苦しめる運命に復讐し、ある女性は信仰心と道徳観念によって自分の不満を鎮めようとする。

メルトイユ侯爵夫人の夫はとうに亡くなっている。当時の社会が求めていた、夫に先立たれた女性の余生の過ごし方について、メルトイユ侯爵夫人はヴァルモンへの手紙で述べている。それは修道院に入るか、実家に戻るかであり、彼女は自分が夫の死後、田舎の領地にしばらく隠棲していたら、人々が自分を貞淑な未亡人とみなしたことを嘲笑っている。

サラ・バロン演ずるメルトイユ侯爵夫人は、複数の男性を誘惑して快楽をほしいままにするが、いつも男性を押さえつけ支配しようとする。ジェルクール伯爵が彼女を捨てたのも、それが原因であることが冒頭の踊りで分かる。ダンスニーも彼女の誘惑に乗ってしまうが、彼も徐々にメルトイユ侯爵夫人の強引さと執拗さを嫌がり、彼女から離れようとする。

ヴァルモンでさえも彼女には逆らえない。彼女はヴァルモンとの関係でも彼を押さえつけてコントロールする。ヴァルモンの悪人ぶりなどは所詮は底の浅いもので、いとも簡単に真剣に恋することに目覚め、自分の悪辣さを反省して自己嫌悪に陥り、最後には罪悪感から自ら死を選ぶ。

メルトイユ侯爵夫人の狡猾さと邪悪さは、彼女が当時の社会から受けた仕打ちによってできあがったものである。ヴォランジュ夫人が、娘のセシルの結婚を本人の気持ちなどまったく無視して決めたように、当時の結婚には、本人の意志や愛情が介在する余地など存在しなかった。

原作でもそうだが、セシルはジェルクール伯爵が自分の結婚相手であることを最初は知らない。舞台ではジェルクール伯爵本人が登場する。彼のセシルに対する態度はまるで商品を値踏みするかのようで、セシルの母親のヴォランジュ夫人は、伯爵が娘を「購入」してくれるかどうか気をもんでいる。当時の結婚での女性の扱われ方とは、こんなものだったのだ。

メルトイユ侯爵夫人は述べている。「ふつう残酷なまたは楽しいものに思われている初夜も私には経験の一機会を与えるにすぎませんでした。苦痛と快楽、私はいっさいを正確に観察し、これらさまざまな感覚のなかに、収集し考察すべき事実を見たにすぎませんでした。」(伊吹武彦訳「危険な関係」、岩波文庫)

トゥールベル夫人も例外ではない。サラ・ウィルドー演ずるトゥールベル夫人は、黒の喪服に黒のヴェールを頭からかぶった姿で登場する。この舞台では彼女の夫であるトゥールベル法院長はとうに亡くなっていて、彼女はその喪に服しているという設定らしい。

穏やかな音楽とともに姿を現したトゥールベル夫人は、ヴェールを上げて眩しげに辺りの風景を見わたすと、かぶっていたヴェールを床に投げ捨ててしまう。

またロズモンド夫人、セシル、ヴォランジュ夫人、ジェルクール伯爵らが、お茶を飲みながら談笑している横で、トゥールベル夫人はひとり踊る。ヴァルモンが見つめているのに気づくと、彼女はあわてて踊るのを止めて両手を組んでうつむき、内気で遠慮がちな態度に戻る。

ヴァルモンは、トゥールベル夫人が慎み深く喪に服しているとはいえ、実は自由になりたいとどこかで望んでいるのを瞬時に見破って彼女を挑発する。もうひとりそれに気づいている人物がいる。部屋の端に座り、ヴァルモンとトゥールベル夫人を静かに眺めているメルトイユ侯爵夫人である。

セシルに対するヴァルモンの残酷な仕打ちは、かつてメルトイユ侯爵夫人やおそらくはトゥールベル夫人、そして当時の女性たちが受けざるを得なかった、耐え忍ばなければならなかった仕打ちだろうことがうかがわれる。メルトイユ侯爵夫人が男性を憎んで支配し、トゥールベル夫人がヴァルモンの求愛を受け入れた素地はここにある。

メルトイユ侯爵夫人とトゥールベル夫人の片手は同じ動きをする。メルトイユ侯爵夫人はその手を動くままにしておくが、トゥールベル夫人は激しく動揺し、悲壮な表情でその手を叩いて止めようとする。対応が違うだけで、心にあるものは同じなのである。

悪循環というか連鎖というか、メルトイユ侯爵夫人はセシルを自分のコピーにしようとする。まず彼女はセシルを自分と同じような目に遭わせる。自分を捨てたジェルクール伯爵(セシルの婚約者)への面当てというよりは、かつての被害者(メルトイユ侯爵夫人)が今度は加害者になって復讐を果たした、という印象が強い。

翌朝、ヴァルモンの仕打ちにショックを受けたセシルが、怯えてヴァルモンを避けようとしたのは正常な反応だ。しかしメルトイユ侯爵夫人は「そんなことは何でもないことなのよ」という態度でなだめ、ヴァルモンをこれからも受け入れるようにそそのかす。セシルは無理に自分を納得させ、メルトイユ侯爵夫人が勧める通りにしてしまう。

メルトイユ侯爵夫人はプレヴァンを誘惑しておきながら途中で悲鳴をあげ、プレヴァンが自分を乱暴しようとしたとヴォランジュ夫人に訴える(このへんのサラ・バロンの表情や仕草は必見)。やはり駆けつけたセシルに、メルトイユ侯爵夫人はこっそりと耳打ちしてプレヴァンをうまく引っかけたことを打ち明け、彼女たちは痛快な様子でケタケタと笑い声を上げる。

メルトイユ侯爵夫人はこうやってセシルに男性への復讐方法を教え込んでいく。多数の男性を誘惑し、からかい、嘲弄し、支配するというやり方であり、セシルは最後には婉然と微笑んでヴァルモンを自分から進んで誘うに至る。

だがメルトイユ侯爵夫人は根っからの悪女ではない。彼女はダンスニーに、ヴァルモンとセシルが抱き合ってのたうちまわる様を見せつける。怒り狂ってヴァルモンに殴りかかるダンスニーを、メルトイユ侯爵夫人は面白そうに眺め、長剣さえ手渡してダンスニーをけしかける。

殴りあいでも剣での戦いでも、ダンスニーはヴァルモンに軽くあしらわれる。メルトイユ侯爵夫人はそれを知っていた。ヴァルモンが負けるわけがないとたかをくくっていた。しかし結末は彼女の思わぬ事態となってしまった。

メルトイユ侯爵夫人は奇妙で気味の悪い姿勢でまろびながら、辛うじてヴァルモンの傍に近づき、彼の体を起こそうとする。本当に死んだはずがない、とでもいうように。彼女はヴァルモンを愛していた。でも自分でそれに気づいていなかった。気づきかけたが、途中で気づくのを止めた。本当に哀しい光景だった。

この日は公演後にトーク・ショーが行われました。内容についてですが、撮影・録画・録音ともに禁じられていたところからみると、いずれ「危険な関係」公式サイトに掲載されるのではないかと思います。

従ってここでは省略します。もし公式サイトに掲載されない、もしくは掲載されても編集や省略が多い場合は、今日メモしておいたものをここに載せるつもりでいます。

一つだけ触れるなら、「危険な関係」の上演実現にこれほどの長い時間がかかった理由について、クーパーが率直に事情を話していたのが印象に残りました。お金の問題、つまり、イギリスではスポンサーが見つからなかった、ということです。

その背景についても彼は正直に認めました。「この作品の上演には莫大な費用がかかります。これは大きなリスクを冒すことであり、その点で彼ら(イギリスのプロデューサー、スポンサー、劇場など)は僕を信用しませんでした。」

彼らがこの作品の上演を躊躇したのは残念なことです。サドラーズ・ウェルズどころか、ナショナル・シアターで上演してもおかしくない作品だと私は思います。これがイギリスで上演されていたなら、おそらくは大きな話題となったはずです。日本がこの作品の世界初演という栄誉に預かったのはすばらしいことですが。

たとえ日本の主催者側の本来の思惑がさほど高尚なものではなかったとしても、結果的に彼らは佳作(名作とさえいいたいくらいですが)を世に送り出すことに協力しました。私はこれを創造的な貢献だと思うし、クーパーのファンとしても、また優れた作品を目にすることのできた観客としても、今度ばかりは彼らにありがとうと言いたいです。(たとえチケットやパンフレットやグッズの値段が高くとも〜。)

またクーパー君が最後にファンへメッセージを送りました。「この作品は、楽しんで頂くと同時に、感動もして頂きたいと思っています。何年も僕を応援してくれているみなさんに、本当に感謝しています。」


2005年1月27日

「危険な関係」1月27日昼公演(この日は昼公演のみ)。ヴァルモン子爵:アダム・クーパー、メルトゥイユ侯爵夫人:サラ・バロン、トゥールヴェル夫人:サラ・ウィルドー、ロズモンド夫人:マリリン・カッツ、ヴォランジュ夫人:ウェンディ・ウッドブリッジ、セシル:ヘレン・ディクソン、ダンスニー:デミアン・ジャクソン、ジェルクール伯爵:リチャード・クルト、プレヴァン:サイモン・クーパー。

この舞台は「ひどく重くて底のない深い何か」を観る側に感じさせる。設定は18世紀中〜後期フランスとはいえ、現代の私たちには異次元ともいえる、はるか昔の遠い国での貴族たちの世界を描いている、などとはさっぱり感じさせない。

いまだにうまく表現できる言葉が見つからない。でも、この「ひどく重くて底のない深い何か」が、まさに現代的なテーマであるのは確かだ。なにもそこまで深刻に受け取らなくても、と笑われるかもしれない。だけど私には、この舞台が描いているものが心の深い部分に突き刺さって、どうしてもそれを抜き取ることができない。

ほどほどのヒューマン・ドラマを描いている舞台は他にも多くある。でもこの舞台は、徹底的に逃れようがなく、救われもしない人間の姿を描いている。だからこそ余計にリアルである。なぜならこうした救いのない現実が、ほとんどの現実の実態なのだから。

クーパー君は、ラクロの原作に羅列された、時に仰々しい表現でつづられた往復書簡から、どうしようもない人間の悲惨さを読み取ったのだろうか。これは、実際にそういう思いをした人でないと分からないことだと思う。彼は心の中にこんな部分を持っていたのだ。この舞台には、単なる舞台的な効果を狙った、とは言い切れない振付が多くある。

ヴァルモンのトゥールヴェル夫人に対する態度が一変する場面では、信じて愛した男の豹変に絶望するサラ・ウィルドーの表情が凄まじい。同じように、彼女を心から愛しているのに、自分はどうしようもない最低な人間だ、という思いのために、彼女を暴力的に拒否してしまうクーパーの表情も痛々しい。

メルトゥイユ侯爵夫人も、ヴァルモンが死んだことで完全に心を閉ざしてしまう。この舞台の登場人物たちのいいところは、一人として「100%良い人間」も「100%悪い人間」もいないところである。だから余計に切ない思いになる。観た後ぜんぜんスッキリしなくて、普段は考えないですませていることを、目の前に突きつけられる。

振付や演出は初日とはずいぶん変わった。ストーリーがとても分かりやすくなった。ただし、あまり分かりやすくし過ぎないでほしい。具体的にし過ぎなくても、この舞台のテーマは充分に伝わっている。テーマを受け取ってから、その課題をどう処理するかは観る側の領域である。その余地はどうか残しておいてほしい。

それにしてもまったく参った。これがクーパー君の正体だったのか。こう言っちゃなんだが、今までとはまるで別人である。この舞台を観ると、細かいとこで難クセつけるとか、ツッコミ入れるとか、そういう気にならなくなる。そんなことをするための舞台ではないの。

クーパー君の関わっている舞台だから観たけど、それ以上にいい舞台に出会えてよかった、という思いのほうが強い。観客はみな固唾を飲んで、静まり返って見入っている。すでにご覧になった方々からメールを頂いているのだけど、面白いことにほとんど全員が同じことを書いている。

たぶんこの舞台が発信しているものが、観た人それぞれの心の中にある同じ部分に、深く食い込んでくるからだと思う。自分の中にそんな部分があるとは意識していない人の心の中にさえも。それは「官能」だの「邪悪」だのといったつまらないことではなく、人間のどうしようもない「業」みたいなものへの、静かな悲しみなんだと思う。


2005年1月22日

「危険な関係」の感想は、こうして観劇したその都度、ここに書いていくことにします。公演が終了した時点で、ストーリー紹介の性質が強ければ「名作劇場」に、ほとんど感想だけならば「雑記」に、あらためてまとめた形の一文を載せたいと思います。

「危険な関係」1月22日(初日)夜公演。ヴァルモン子爵:アダム・クーパー、メルトゥイユ侯爵夫人:サラ・バロン、トゥールヴェル夫人:サラ・ウィルドー、ロズモンド夫人:マリリン・カッツ、ヴォランジュ夫人:ヨランダ・ヨーク・エドジェル、セシル:ヘレン・ディクソン、ダンスニー:デミアン・ジャクソン、ジェルクール伯爵:リチャード・クルト、プレヴァン:サイモン・クーパー。

私はこういう観客に挑んでくる作品が大好きです。久々に闘争心を煽られる舞台に出会うことができました。クーパー君が出演しているとか、クーパー君の振付だとか、ほとんど気にすることなく見入ってしまいました。

ストーリーは、あの長い原作のエッセンスを取り出し、多少の改変を加えたものとなっていました。原作が長いだけに、舞台の展開は性急すぎる気もしましたが、まあ100分という時間では仕方がありません。原作は書簡体小説で、あの原作で登場人物たち自身が言っていることのほとんどが嘘なわけですが、でもたまに一言二言だけ本音を吐いているときがあります。舞台はそういう大事な部分や、それらの部分から想定される登場人物たちの本質を鋭く捉えていたと思います。

いろんな人物たちの関係が複雑に交差しながら物語が同時進行するので、目が忙しくて大変でした。しかも原作と同じように、彼らも舞台上ではほとんど嘘をついていて、ほんの一瞬に見せる本音を捉えるのに一苦労しました。

第一幕(50分)は登場人物たちを次々と出して、彼らの基本的なキャラクターやお互いの関係などを説明し、最後は凄絶なシーンで終わります。第二幕(50分)で物語は一気に進行し、メルトゥイユ侯爵夫人以外はみな破滅を迎え、メルトゥイユ侯爵夫人がひとりで舞台に凝然と立ちつくしている、不気味なラストを迎えます。彼女にとってこれが勝利であるのか悲劇であるのかは分かりませんが、彼女はすべてを憎みぬいた挙句に、すべてを失ったことだけは確かです。

音楽は基本的にバロック調で、私はバロック音楽が苦手なんですが、なんだか耳について離れません。舞台美術と衣装はなにせあのレズ・ブラザーストンですから、文句なしに美しい幻想的なものでした。ただ、ロズモンド夫人によるバロック・オペラ風の歌は、あまり実効性がなかったように思います(ロズモンド夫人がハープシコードを弾きながらアリアを歌い、それを椅子に座って聴いている面々が、上半身だけを使ってさりげなく駆け引きをするシーン以外は)。

キャストは完璧だと思います。だれがいちばんかと言われれば、それはやはりメルトゥイユ侯爵夫人役のサラ・バロンでしょう。狡猾とか邪悪とか表現されていますが、彼女はとにかくすべてに怒っていて、すべてを憎んでいる、とても哀れな人間です。そしてヴァルモンが死んだとき、彼女ははじめて理性を失います。それがあの爬虫類のような気味の悪い動きと獣のような咆哮です。

ヴァルモン役のクーパー君は、今日の踊りは本調子ではありませんでしたが、やはりキャラクターの把握と解釈は実に的確なものでした。愛情なしのセックスなら平気でできるのに、本当に愛してしまった相手には不能になってしまい、最後には恐怖のあまり相手を殺そうとさえしてしまう。ラクロの原作は官能小説ではなく心理小説だという感を深くしました。

それから、18世紀のグロテスクな面を巧みに表現した演出にも感心しました。クーパー君は裏と表が逆、とか言っていましたが、私はグロテスクという言葉で表現したいと思います。ヴァルモンはセシルの寝室に忍び込む前、長髪のカツラを無造作に投げ捨て、横柄な仕草で寝室着に着替えます。

その姿は実にマヌケでした。カツラの下はハゲ頭に近い丸坊主、ガウンの下は膝丈のパンツ一枚です。観客はここで噴き出していました。私も噴き出しましたが、これがロココ期特有のグロテスクさなのです。クーパー君のあの丸坊主は、カツラをかぶるという舞台での実用的な目的のためだけではなく、ロココ期の下品で不恰好な裏側を象徴するためでもあったのだ、とようやく気づきました。

振付や演出にはまだ修正が必要だと思いますが、初演にしては上々の出来だったのではないか、というのが正直な感想です。これほどの作品がイギリスで初演されなかったとは、実に不思議なことです。

今日はこのくらいにします。クーパー君の宣戦布告、受けて立ちましょう(メルトゥイユ侯爵夫人風に)。


2004年12月28日

取り急ぎリンクだけ。日本ではなぜかあまり詳しく報道されていませんが(多くの日本人が巻き込まれている可能性が極めて高いにも関わらず)、本当にこれはとんでもない事態になっているらしいので。

Yahoo!Japan News 海外トピックス・スマトラ地震支援 (日本語)

BBC NEWS (英語)

CNN.com International (英語)

大きく報道されなければ、まるでそれが小さなことのように思えてしまう。だからメディアというものは恐ろしい。


2004年12月25日

ここの日記は「雑記(Note)」に移動しました(2004-05 年末年始バレエ鑑賞記 (1) 新国立劇場バレエ「くるみ割り人形」)。


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