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BIOGRAPHY

32.Sea of Troubles

2002年7月、アダム・クーパーはマイケル・コーダー(Michael Corder)、マシュー・ハート(Matthew Hart)とともに、London Studio Centreの卒業公演、Images Of Danceに振付作品を提供した。クーパー君はロイヤル・バレエを退団してからほぼ毎年、この公演に作品を提供している。

クーパー君の作品は"The Bawdy Song Travellers"という題名で、これは「俗謡歌いの旅人」とかいう意味なのだろうか。どんな踊りだったかというと、伝統的なイングランドの歌に合わせた民族舞踊的な作品だったそうである。「ポワント・シューズではなく平底の靴を履き、ダンサーたちはキャラクター・ダンスと呼ばれていた振りを踊り、それは一見するとバレエの堅苦しい定型から解放されているようにみえた。」(This is London)

なんでもこの作品では、2人の女生徒がオーク(ブナの木)役をやらされたらしく、評者(London Studio Centre校長のMargeret Barbieri)は、「クーパーはプロなのだから、ダンサーに木の扮装をさせるよりもっと賢明なやり方を知っているはずだ」と苦言を呈している(笑)。確かに幼稚園のお遊戯会じゃないんだから、「ブナの木役」なんてあんまりだよなあ。

それからほどなく、クーパー君は再びエクセター・フェスティバル(Exeter Festival)をイアン・ウェッブ(Iain Webb)とともに企画し、自らはもちろん出演もした。この年のエクセター・フェスティバルは"A Tribute to Sir Kenneth MacMillan"と題し、上演されたのはすべてマクミランの作品であった。この2002年はマクミランの没後10年にあたっていた。

「僕たちはフェスティバルでマクミランへの感謝を捧げることに決めた。それは僕自身、サラ(・ウィルドー)、イアン(・ウェッブ)にとってワクワクすることだった。ケネスは僕たちのキャリアにおいて大きな役割を果たしてくれた。僕たちは彼に大きな恩義がある。僕たちにできるせめてものことは、彼の母国で彼にきちんとした感謝を捧げることだった。」(アダム・クーパー公式サイト"Diary"2003年3月)

マクミラン没後10年に合わせた企画とはいえ、同じ時期に「脱アシュトン・マクミラン」を宣言していた当時のロイヤル・バレエ芸術監督、故ロス・ストレットンへのささやかな対抗意識もあったのかもしれない。マクミラン作品の上演の許可を決定する権利を持っていたマクミラン未亡人のデボラ・マクミランは、この公演に全面的に協力した。

この公演の演目は面白い。もちろんほとんどは抜粋であるが、「エリート・シンコペーション(Elite Syncopations、1974年)」、「マノン(Manon、1974年)」よりレスコーのソロと沼地のパ・ド・ドゥ、「ダンス・コンチェルタント(Danses Concertantes、1955年)」、「イサドラ(Isadora、1981年)」よりタンゴとイサドラのソロ、「サイド・ショウ(Side Show、1972年)」、「シー・オブ・トラブル(Sea of Troubles、1988年)」、「グローリア(Gloria、1980年)」、「四季(The Four Seasons、1975年)」より夏のパ・ド・ドゥ、「レクイエム(Requiem、1976年)」、「パゴダの王子(The Prince of Pagodas、1989年)」など多岐にわたっている。

演目の構成は、同年の三月に日本のスターダンサーズ・バレエ団が東京で上演した「マクミラン・カレイドスコープ」を想起させるし、上演作品の一部も同じである。それも当然で、この年のエクセター・フェスティバルの企画・構成には、「マクミラン・カレイドスコープ」のプロデュースを手がけたモニカ・パーカー(Monica Parker)も参加していたからである。クーパー君は「マクミラン・カレイドスコープ」を気に入ったのだろう。一方、パーカーも「マクミラン・カレイドスコープ」のような公演をイギリスでも行ないたいと願っていた。そうした両者の思惑が一致したのである。

この公演に出演したダンサーはたったの8人で、アダム・クーパー、サラ・ウィルドー、マシュー・ハート、リチャード・クルト、あとはイングリッシュ・ナショナル・バレエからシーニン・リウ(Shi-Ning Liu)、Elisa Celis、Lisa Probert、Sarah McIlroyであった。司会進行(笑)はスティーヴン・ウィクス(Stephen Wicks)、映像版「三人姉妹」でトゥーゼンバッハ(黒髪にメガネ)を踊っていた人である。

上演された作品のうち、「イサドラ」のタンゴと「マノン」の沼地のパ・ド・ドゥはクーパー君とウィルドーによって踊られたそうだ。「イサドラ」の「タンゴ」はどんな踊りなのかよく分からないからおいとくとして、クーパー君とウィルドーが踊る「沼地のパ・ド・ドゥ」はぜひ観てみたかった。きっととてもドラマティックで迫力があったことだろう。

実際にこの公演を観た人はこう書いている。「最後、マノンが死んだことに気づいたとき、クーパーのデ・グリューはマノンを抱きしめ、最後の悲嘆にくれた慟哭シーンで観客に向かって顔を上げる。何を言いたいかというと、アダムがやったこと(そして他のダンサーはやらないこと)は、アダムが顔を上げる前にすでに叫びかけていたことなのである!だから彼が顔を上げたとき、観客はその感情、その絶叫、その悲嘆がすでにそこにあるのを見るのであり、そしてそれは観客を悲愴な嘆きへと引き込むのである。」

「私が観たことのある他のダンサーたちは、顔を上げて、それからやっと『叫ぶ』真似をする。それもいいけど、でも効果的ではない。単調に過ぎる。こうした表情の変化を目撃することは、激しく衝撃的な効果を観客に与えない。観客は悲嘆を表現するダンサーや俳優に同調はするが、しかしそれは観客に同じ激情をぶつけることはない。」

「もし『マノン』の最後の場面で、アダムのデ・グリューがマノンに身を寄せ、マノンが彼の腕の中で死んで横たわり、彼が突然あんな悲愴な表情を浮かべて、その顔を観客に向けたら、観客の心を悲しみで引き裂いてしまうだろう!でもこれこそがアダムが才能ある俳優であり、また優れたダンサーである所以なのである。」(ballet.co magazine "MacMillan Tribute Exeter Festival")

この公演は小規模なものであり、伴奏はテープ、ピアノ一台、舞台装置などほとんどない簡素なものだった。しかし、各演目の作風や雰囲気は多様性に富んでおり、しかもそのほとんどは現在めったに上演されなくなった作品であった。「ダンス・コンチェルタント」、「サイド・ショウ」、「イサドラ」、「レクイエム」、「グローリア」などがそうであるが、最も人々の注目を引いたのは、めったに上演されないどころか、その存在さえ忘れ去られていたといってもいい「シー・オブ・トラブル」であった。

「シー・オブ・トラブル」は「ハムレット」を題材とした作品で、1988年にDance Advanceというカンパニーのために振り付けられた(だからロイヤル・バレエでは上演されないのだろう)。"Sea of Troubles"という作品名は、ハムレットの有名な独白「生きるか、死ぬか、それが問題だ」の後に続く文句の中にある言葉であり、ハムレットが背負うことになった様々な苦悩と困難を意味している。

この作品は一幕物の「ミニ・バレエ」で、伴奏は生ピアノだったらしい。わざわざエクセターまで観に行った舞踊批評家のIsmene Brownは「(日本の)能のような」と表現している。「間に合わせの舞台美術 ― 金の壁掛けや厚紙でできた王冠は、『ハムレット』の劇中劇を想起させ、各シーンごとにライトが消される中、動く活人画のような様相を呈していた。」(「テレグラフ」2002年7月10日) 威勢よく飛んだり跳ねたり振り回したりのバレエでなかったことは確かだ。

「ハムレット」のストーリーをそのままバレエ化したのではなく、「ハムレット」の各場面に想を得て、様々な人間関係、登場人物たちの心情や運命を象徴的に表現した作品だったらしい。だが説明的な振付ではなく、かといって抽象的に過ぎる振付でもなかったという。

また、一人一役とは限らず、役を交代したり、同じ役を複数のダンサーが同時に踊ったりしたようだ。たとえばクーパー君がハムレットを踊った後、クローディアスを踊っていたマシュー・ハートが引き継いでハムレットを踊り、そのハートの後を継いでリチャード・クルトがクローディアスを踊る。またサラ・ウィルドーともう一人の女性ダンサーが同時にガートルードを踊る、というように。こうしてすべてのダンサーが役を交換、あるいは共有しながら作品は進行していったようである。

その振付の作風は、マクミラン作品を見慣れた人々にとっても斬新なものだったらしい。「『シー・オブ・トラブル』を観ることは全く新しい体験であった。それはマクミランの他の振付と同一線上に属するものではなく、それらから独立した別個の作品であった。どうしたわけか、その動きの語彙は、マクミランの全幕作品における、いかなる他の形式とも異なっているように思えた。非常にコンテンポラリーで、非常に力強く、非常に美しく、非常に端的であった。その動きはほとんど幾何学的であり、とても含蓄に富んでいて且つ明確なものであった。」(ballet.co magazine "MacMillan Tribute Exeter Festival")

面白いことに、この評者も上記の舞踊批評家と同じことを言っている。「舞台セットはごく僅かで、全体的に日本の美学を感じさせた。ぎりぎりまで少なくすることによって、更なる強い効果を生むのである。」

ともかくも、「シー・オブ・トラブル」は、「マクミランが新しい形式を模索し、彼の振付を新しい方向へと押し出していたかのような」(ballet.co magazine "MacMillan Tribute Exeter Festival")作品だったのである。ぼんやりとしたイメージしか湧かないが、私はこの「シー・オブ・トラブル」には大いに興味がある。たぶん私の好みに非常に合っている(気がする)。機会があればぜひ観たいものである。

演目としてこの作品を強く推したのはクーパー君であった。彼は公式サイトの日記(2003年3月)で、「この年のショウ(エクセター・フェスティバル)のハイライトは、疑いようもなくモニカ・パーカー、イアン・ウェッブ、そして僕が再上演した『シー・オブ・トラブル』だ。この伝説的な作品について、僕は何年も前に聞いて覚えていて、それはなんともすばらしい作品に思えた。僕とイアンがショウで上演する演目について話し合っていたとき、僕は一幕物のバレエをぜひともやりたかった。そして、突然『シー・オブ・トラブル』が頭に浮かんだ。オリジナル・キャストが踊る映像を観て、この作品は再上演されるべき、すばらしい、強く訴えかける力がある作品だと僕は思った。」

クーパー君には作品の選択眼がある、と私は個人的に思っている。何年も前に話に聞いただけの作品を覚えていて、それがよりによって必要なときに「突然」頭に浮かんだ?大した直感である。こうしたガラ公演のプロデュースはけっこう得意なのではないか。この翌年、2003年に行なわれたエクセター・フェスティバルの演目も興味深い作品ばかりであった。

また、長いあいだずっと埋もれていて、「オックスフォード・ディクショナリー・オブ・ダンス」のケネス・マクミランの項にさえ載っていない作品をよみがえらせたことも評価されるべきである。しかも一連のマクミラン作品とは趣をまったく異にする、極めて前衛的な作品をあらためて紹介したのだから。ちなみに彼は「シー・オブ・トラブル」をよっぽど気に入ったのか、翌2003年にアメリカのワシントンD.C.で、またロンドンでもこの作品を再上演している。

エクセターという地方での小さな公演とはいえ、このプロダクション、"A Tribute to Sir Kenneth MacMillan"は高い評価を受けた。「充分に洗練されていなかったかもしれないが、この深く配慮され、適切に構成されたガラは、マクミランの価値の強く忘れ難い印象を観る者の心に残した。これが、高まってはいるが偏っているマクミランへの称賛を補完するのに、広く貢献することを願うばかりである。」(「テレグラフ」2002年7月10日)

(2006年2月28日)

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33.再びロイヤル・バレエへ

2002年7月、アダム・クーパーはエクセター・フェスティバルの仕事を終えた後、すぐにロンドンに戻り、ロイヤル・バレエのサマー・シーズン公演「オネーギン」に客演した。

この間の彼のスケジュールは、かなりハード、というより常軌を逸したものだった。7月12〜13日にエクセター・フェスティバルを行うと、なんと翌々日の15日にはロイヤル・バレエの「オネーギン」(夜公演であったとはいえ)に出演したのである。彼はその週、15日と18日にオネーギン役として、20日の昼公演にはグレーミン公爵役として、ロイヤル・オペラ・ハウスの舞台に立った。

既述したとおり、クーパー君はエクセター・フェスティバルに、ただ出演だけしたのではない。フェスティバルの企画・構成に最初から携わり、出演してくれるダンサーたちを集め、更に実際の上演でも、出演したダンサーたちの中で主要な役割を果たした。

私は2002年7月15日の「オネーギン」を観たが、クーパー君がその前々日に、エクセター・フェスティバルに出演したことは知っていた。当時の私は彼の無茶なスケジュールに呆れ、また彼は疲れているだろうから、それが「オネーギン」でのパフォーマンスに影響するのではないかと心配したものである。もっとも、彼は後にも似たようなことをやってのけ、更に今年(2006年)の「ガイズ・アンド・ドールズ」では7ヶ月間連続出演という偉業(?)を達成したから、今となっては、彼のこうしたワーカホリックなスケジュールと行動には驚かなくなった。

少し時間をさかのぼって、2001年秋にロス・ストレットンがロイヤル・バレエの新芸術監督に就任してからの、ロイヤル・バレエの状況に目を向けてみよう。

ストレットンは就任する前から、イギリスのバレエファン、舞踊批評家、ロイヤル・バレエのOBたちのすべてから歓迎されていなかったが、就任後はその不人気ぶりにますます拍車がかかった。最も深刻な問題は、ストレットンとダンサーたちとの間に不協和音が生じ、それがますます悪化していったことであった。

ダンサーたちの主な不満は、スケジュールが未だかつてないほどに過密化したことであった。ストレットンは着任後、ロイヤル・バレエで上演されたことのない新しい作品の上演に次々と踏み切った。そのためにダンサーたちは休みなく、彼らが踊ったことのない新しい振付を覚えて練習しなければならなくなった。また、それらの新しいレパートリーの種類も数も多かったので、ダンサーたちは複数の新しい作品を同時にリハーサルすることになった。更には従来のレパートリーである作品も、引き続いて練習しなければならなかった。そして平日の夜、また週末の昼と夜には舞台があった。

その次の問題は、ストレットンの人材活用の偏向である。ストレットンはロイヤル・バレエを新生させるために、古典作品やアシュトン、マクミラン作品を得意とするロイヤル・バレエの伝統を引き継ぐと同時に、主にヨーロピアン・コンテンポラリー作品を新しいレパートリーとして取り入れた。ストレットンのこのプランを実現させるには、クラシックとコンテンポラリーの両方に対応できるダンサーが必要だった。

よって、ストレットンの要求に応えられないダンサーは舞台にあまり出演させてもらえず、ストレットンの気に入られたダンサーは、過剰なほどに舞台に出演することとなった。ストレットンは、「目の上のたんこぶ」になりかねなかったイレク・ムハメドフと、「テクニックが弱い上にコンテンポラリーを踊れない」サラ・ウィルドーを、就任早々にロイヤル・バレエから追い出した。

クビにはならなかったものの、2001−2002シーズンの間、実質的に窓際へ追いやられたダンサーもいた。その代表が吉田都である。吉田都は、クラシカルな踊りにおいては卓越した技巧と表現力とを有していた。しかしストレットンには、彼女がコンテンポラリーを踊ろうとしないことが気に入らなかった。ストレットンは2002−2003シーズンに先駆けて、再びダンサーの実質的解雇を行なうつもりでいた。吉田都がほぼ間違いなくその対象になるであろうことは、関係者も批評家もファンもみな知っていた。

一方、ストレットンが偏愛して、舞台にこれでもかというくらい登場させた代表的ダンサーは、ヨハン・コボーとアリーナ・コジョカルであった。しかし、彼らがそれを光栄なことと思ったかといえば、必ずしもそうではなかった。むしろ、ストレットンによる過剰な登用に疲れ果てた上に、ケガをすることが多くなってしまったのである。

2002年の春先あたりから、ロイヤル・バレエの高位ダンサーたちの中でケガ人が続出し始めた。ロイヤル・バレエの公演のキャスト変更が、ロイヤル・オペラ・ハウスの公式サイトでしょっちゅう告知され、その理由はいつも「ケガ」であった。

ダンサーにはケガはつきものであるが、人々はケガをしたダンサーの数が例年に比べて異常に多いことを訝った。ストレットンもロイヤル・バレエの管理部門もそれを認めた。

ダンサーのケガの多さが噂され始めたころの、2002年3〜4月にロイヤル・バレエが上演した演目は次のとおりである。

3月:1.“La Bayadere”(マリウス・プティパ原振付、ナターリャ・マカロワ改訂振付)、2.“In the Middle, somewhat eleveted”、3.“The Vertiginous Thrill of Exactitude”(ウィリアム・フォーサイス振付)、4.“Remanso”、5.“Por Vos Muero”(ナチョ・ドゥアト振付)、6.“Giselle”(ジャン・コラリ、ジュール・ペロー原振付、マリウス・プティパ改訂振付)

4月:1.“In the Middle, somewhat eleveted”、2.“Por Vos Muero”、3.“Carmen”(マッツ・エック振付)、4.“Giselle”、5.“Romeo and Juliet”(ケネス・マクミラン振付)

こうしてみると、ストレットンは別にコンテンポラリー作品一辺倒ではなく、古典作品もマクミラン作品も大事にしていることが分かる。クラシックとコンテンポラリーの双方を、またヨーロッパの振付家たちの作品を広く紹介するという点では、とても興味深いプログラムである。ただし、問題はあまりに作品数が多すぎることと、これらの作品を上演するスケジュールだった。それがダンサーたちを疲弊させ、ケガが発生しやすい原因となっていたのである。

たとえば2002年3月の上演スケジュールはこうである。

2日“La Bayadere”
4日“In the Middle”、“Remanso”、“The Vertiginous Thrill of Exactitude”
6日“In the Middle”、“Remanso”、“The Vertiginous Thrill of Exactitude”
8日“La Bayadere”
12日“La Bayadere”
13日“La Bayadere”
14日“La Bayadere”
15日“La Bayadere”
18日“In the Middle”、“Remanso”、“The Vertiginous Thrill of Exactitude”
20日“In the Middle”、“Remanso”、“The Vertiginous Thrill of Exactitude”
21日“Giselle”
23日“Giselle”
26日“Giselle”
27日“Giselle”
30日“Giselle”

んで2002年4月の上演スケジュールはこう。

4日“Giselle”
6日“Giselle”
9日“In the Middle”、“Por Vos Muero”、“Carmen”
10日“In the Middle”、“Por Vos Muero”、“Carmen”
11日“Giselle”
13日“Giselle”
16日“Giselle”
19日“In the Middle”、“Por Vos Muero”、“Carmen”
23日“In the Middle”、“Por Vos Muero”、“Carmen”
24日“In the Middle”、“Por Vos Muero”、“Carmen”
26日“Romeo and Juliet”
29日“Romeo and Juliet”
30日“Romeo and Juliet”

ストレットンは突っ走りすぎたようで、1ヶ月に古典作品とコンテンポラリー作品を合わせて5〜6個も上演した。しかも双方を織り交ぜて、ほとんど双方の間に日を置かずに、である。それが古典作品の範疇に入ろうが、それともコンテンポラリー作品の範疇に入ろうが、振付家によって踊りの特徴は異なるものであるにも関わらず。ダンサーは毎日、振付の質が大いに異なる作品を数種類も同時にリハーサルし、そしてある日は古典作品を、その翌日か二日後にはコンテンポラリー作品を舞台で踊る、というスケジュールを強いられた。

ケガ人が続出したのは、タイプの異なる多くの作品を、超過密スケジュールでリハーサル・上演したことが大きな原因だったようだ。ロイヤル・バレエの管理部門は、「ケガがいつもより多い」と認めたが、しかし、その理由については、「単なる不運によるもの」とコメントした。だが少なくともダンサーたち本人は、ストレットンが組んだ無理なスケジュールが元凶だと思っていた。

シルヴィ・ギエムは、同じ4月にプティパ振付の「ジゼル」とマッツ・エック振付の「カルメン」を踊るよう依頼されたが、彼女はこれを拒否した。ギエムは「充分な時間を置いてそれを消化することなくして、与えられたすべての役をむさぼり食らう『バレエ過食症』」(「テレグラフ」2002年3月22日)を批判した。

ストレットンのお気に入りであるはずのヨハン・コボーもはっきりと口にした。「もしかしたら、ロイヤル・バレエはもっと団員を増やすか、あるいはより少数のバレエのみを上演すべきかもしれないね。」(「テレグラフ」2002年3月22日)

ロス・ストレットンは2005年6月に53歳という若さで急逝した。死因は癌であった。ストレットンは前述したとおり、ロイヤル・バレエの新芸術監督に着任してからわずか1年後、2002年9月にロイヤル・オペラ・ハウスから事実上解任される。

ストレットンがロイヤル・バレエを運営したやり方は、確かに強引で性急すぎた。だがストレットンにはストレットンの理想があった。今となっては知る由もないが、彼は当時すでに自分の病気のことを知っていて、それで一刻も早く自分の理想を実現しようとしていたのかもしれない。

アダム・クーパーにとって、ロス・ストレットンは仇敵であると同時に恩人ともいえる。ストレットンはサラ・ウィルドーを陰湿な方法で退団に追い込んだ。しかし、ストレットンは、ウィルドーの夫であるアダム・クーパーには着目していた。

ロイヤル・バレエの「オネーギン」に、クーパー君がファースト・キャストとして出演できたのは、「オネーギン」のキャスティングを担当したシュトゥットガルト・バレエ団の芸術監督、リード・アンダーソンの提案に、ロス・ストレットンが最終的にOKを出したからであることは想像に難くない。ストレットンはイレク・ムハメドフをオネーギン役の候補に挙げることは許さなかったからである。

更にストレットンは、「オネーギン」以降も、アダム・クーパーをロイヤル・バレエの舞台に出演させることを明言していた。2002年秋にストレットンは芸術監督の職を辞したが、彼の任期はとりあえず3年間あった。よってストレットンが立てた2002-2003シーズン、2003-2004シーズンの演目は、その後2年間は継承された(一部の演目は変更された)。

まず、ストレットンは2002年の初春の段階で、2002年の秋に上演される予定の「マイヤリング」(ケネス・マクミラン振付)への客演をクーパー君に要請していた。この話はクーパー君が断ったので実現しなかったが(かえすがえすも惜しいことだ)。そして、ストレットンが辞任した翌年の2003年12月、ロイヤル・バレエは4作品からなるミックスド・ビルを上演した。アダム・クーパーはゼナイダ・ヤノウスキーとともに、ウィル・タケット振付の“Proverb”を踊った。

ストレットンが解任されずにロイヤル・バレエの芸術監督をその後も続けていたなら、ロイヤル・バレエ自体は、レパートリーを中心にかなり変質することになっただろうが、アダム・クーパーが客演する機会は、ひょっとしたら多くなったかもしれないのである。「たられば」したって仕方ないのであるが、物事というのはなんであれ、道義的にも、気持ち的にも、きれいさっぱりと片づけることができないものだ。

さて、2002年7月、2001年11月-2002年1月以来、半年ぶりのジョン・クランコ振付「オネーギン」の上演が行なわれた。前述したとおり、ロイヤル・バレエは2002年の春以来、ケガ人が続出し、中には深刻なケガをして、残りのシーズンをまるまる棒に振ったダンサーもいた。

この夏の「オネーギン」も、実際に上演されるまで連日といっていいほど、ロイヤル・オペラ・ハウスの公式サイト上に、キャスト変更のアナウンスメントが出された。私は毎日ロイヤル・オペラ・ハウスの公式サイトをチェックしていて、あまりなキャスト変更の多さに、クーパー君までがケガか病気をして降板するのではないか、と不安になったものだった。なにせ飛行機のチケットも公演のチケットも買っていて、荷造りまで完了していたのだから!

7月から8月にかけて行なわれたサマー・シーズンで上演されたのは、「オネーギン」、「ドン・キホーテ」、「コッペリア」であった。その前月の6月、ロイヤル・バレエはオーストラリア公演を行なった。ロス・ストレットンの「故郷に錦を飾る」公演であった。だが、この公演でまたケガ人が出た。「オネーギン」でタチヤーナ役として、クーパー君と組むはずだったタマラ・ロホがものすごい大怪我をしてしまったのである。

彼女は結局「オネーギン」を降板し、タチヤーナ役はもともと第4キャストだったマーラ・ガレアッツィが代役を務めることになった。オリガ役として出演するはずだったアリーナ・コジョカルも、ケガのために降板した。彼女の代わりにジェーン・バーンがオリガを踊ることになった。

かくしてロイヤル・バレエのサマー・シーズン「オネーギン」は、キャストをめぐる大混乱のうちに幕を開けた。

(2006年11月14日)


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