Club Pelican

Diary 5

2004年2月25日

書類棚の整理をしてたら、去年のAMP「白鳥の湖」日本公演チケットの購入予約確認メールやら領収書やらがぞろぞろ出てきた。で、思いだした。去年の今日、2月25日は公演初日だったのだ。クーパー君のスワン/ストレンジャーを初めて生で観た日だ。

当時の感想(“Swan Reviews”)を読んでみた。どこに何が書いてあるのか、自分でももう分かんなくなってるから、あんまり読み直したりしないんだけどね。あのときのウキウキした気持ちやハラハラした気持ちが思い出されて、気分は懐かしさ半分、複雑さ半分といったところである。

でも、間近で見たクーパーの筋肉の美しさ、緊張感と迫力に満ちた動き、「ハーッ」という凄まじい息づかい、額や首筋や胸を流れて床にしたたり落ちる汗、映像版とは異なっている踊りや演技、ちょっと遠くはなったけど、まだまだ生々しく記憶に残っている。自分でもクレイジーだったと思うけど、でも今でも後悔は全然してない。というか、あそこまでやんなかったら逆に後悔しただろう。

その後もクレイジー道をバク進しているのはご覧のとおりである。でもやらないで後で後悔するよりはマシだ。今はやりたいようにやるのが、自分に必要なことなんだと思うようにしている。とにかく一歩を踏み出すこと。もしかしたら、恐れているほどには、事態はそんなに大げさなことではないのかもしれないし。

そういえば、クーパー君のファンになって2年が過ぎた。私はすごく飽きっぽいから、これはすごくめずらしいことだ。思いだした。ああ、私、このアダム・クーパーっていうダンサーをすごく好きになったみたい、と自覚した頃に、彼が日本のバレエ団の公演にゲストで参加する、って知ったのだ。それであわててチケットを買った。

バレエ公演のチケットの買い方なんて知らなかったから、怖いもの知らずで色々と問い合わせて無理を言い、すごく良い席を手配してもらった。そのとき親切に対応して下さった方、本当にどうもありがとうございました。

それからも、今も、ネットを通じて知り合った方々に、本当に本当によくしてもらっている。私なんか赤の他人なのに、親切なお申し出を頂いたり、そして実際にお世話になったりしている。みなさん、本当にどうもありがとう。心から感謝しています。

私が何も恩返しできないのが、とても歯がゆい。


2004年2月23日

実家の母親が道で転んで右手首を骨折してしまった。家事を手伝うため1週間ほど帰省していたので、更新がすごく遅れてしまった。ま〜た更新してねえじゃん、と苛立ったみなさん、どうもすみませんでした。

こんなに長く帰省したのも久しぶりだが、こんなに家事を手伝ったのも久しぶりだった。それこそ一日中、食事の材料の買い出し、料理、食器洗い、掃除、洗濯ばっかりやってた。東京に戻ってきてから、疲れがドッと出て、週末はほとんど寝ていた。

食事の材料の買い出しは特に大変だった。毎日スーパーに行って、牛乳、野菜、肉、魚、卵、豆腐、乳製品、果物などをごっそり買いこむ。水分を多く含んだ食材がほとんどのため、両手に持ったスーパーの袋(もちろん大きいやつ)はクソ重く、取っ手が手のひらにくいこみ、フラつきながらやっと家に着く。買ってきた物を冷蔵庫にぎゅうぎゅうに詰め込む。でも1、2日もすれば、冷蔵庫の中はすっからかんになる。いったいあれだけ大量の食材が、どうしてたった1日で消費されるのか。不思議でならなかった。

口が5つもあったせいかもしれないが、おかずの品数がとにかく多すぎる。不必要だと思えるくらい何品も作る。でもそれがまたきれいに食べ尽くされてしまう。翌日にまで残っていることはまずない。ご飯もそう。1日に最低でも7合くらいは炊いてたんじゃないか。それでもすぐになくなる。なぜだろう。ウチの家族は特別に意地汚いんだろうか。

掃除機をかけても、その日のうちにじゅうたんに貼りついたゴミが目立つようになる。洗濯物も、昨日ぜんぶ洗ってスッキリしたはずなのに、もう洗濯カゴに山盛りになっている。ひょっとして家族全員で私にイヤがらせでもしているのか。

うんざりしてきたし、いつまでも東京を留守にするわけにもいかないし、母親のギプスももうじき外れるということなので、これからは家族で家事の分担をした方がいいのではないか、ということを提言して東京に逃げ帰ってきた。

東京に戻ってから、思い切りいいかげんな生活をしている。掃除も洗濯もギリギリまでやらない。拭き掃除は使い捨てシートで。食事はみーんな買い食い。しかも総インスタント食。「作りたての味」を追求したインスタント食品はダメ。ほとんど水分があって重いから。すっかり乾燥しきった不健康なものがよろしい。ああ、買い物袋が軽いって、なんてすばらしいことなの。

思うに、私が野菜嫌いなのは、家で野菜を充分にとる健康的な食生活を強いられたことが大きな原因だな〜。母親は調理師免許を持っているせいか、特にそういうことにうるさいんだよね。いいじゃん、動物性タンパク質オンリーでも、炭水化物オンリーでも。でも野菜はインスタントで摂取することにした。そう、ネイチャーメイド♪

健全な生活を過度に押しつけられると、逆に徹底的に不健全な生活に走ってしまう、ということですな。


2004年2月6日

昨日は愚痴になってしまったけど、マイナスな感情は言語化してしまうのがよい、と思ったので、まあいっか、と書いちゃいました。今日もその続き。しつこくてすみません。

私は下に書いた彼に対して、彼が自分の失敗をさんざんウソでごまかそうとした挙げ句に、形勢不利とみるや、今度は私の罪悪感につけ込もうとする作戦に出たことに激怒した。自分が招いた結果を受け入れないためなら、ウソ、泣き落とし、イジケなど、なりふりかまわずあらゆる手段を動員するという情けない姿に、私は過剰に苛立ってしまった。

私のボス(上司のことね。みなで陰でこう呼んでいる)は、「最近、なんでも自分に都合よく解釈して、そういう理屈にならない理屈を述べたてるヤツが多いんだよ。親に甘やかされて育ったんだろうね。まあ気にしないで」と言った。すでに書いたように、私は、彼のあの対応は、彼が過ごしてきた「勝つか負けるか」という二元論的世界の中で、自分を守るために身につけたスキルなのだと思っている。

「全か無か式思考」を見事に体現する彼の姿の中に、私は自分自身の姿を見るようで余計にカチンときた。ただ同時に、彼の態度の根っこにあるもの、彼が感情面で自分と他人との区別ができていないということに、もっとショックを受けたのだった。これも私が自分の問題点として、普段から気にしていることだった。

自分がどう感じているのか、そして自分が感じている気持ちは本当に自分のものか、これを正しく把握することは、・・・みなさんにとっては簡単なことかな?私にとっては、これほど困難なことはない。私には自分と他人の感情の区別ができない。だから自分の感情も分からない。

私は他人の感情に、自分でも分からないうちにたやすく同化する。甚だしい場合には、他人の感情を行動化する。たとえば、他人が怒っているのを、自分が怒っているものと思いこんで、その原因となった対象に怒りをぶつける。この過程は心の深い部分で、自動的に、機械的に進行する。意識してわざとやってるんではない。だから自分では気づかない。それに、意識してやってるのではないといっても、結局は他人の感情を「代行」することで、自分もなにかの利益を得ている。だからなおさら気づきにくい。

最近になって、以前よりは少しマシになった。あ、これはこの人の感情であって私の感情ではない、と分かることが多くなった。それに、本当に私のものである感情を、私の心よりも体の方が先に教えてくれるようにもなった。でも代償も大きい。他人から切り離された寂しさを強く感じるし、それに体のメッセージは体力の消耗をともなう(要するに具合が悪くなる)。いちばん辛いのは、理由の分からない不安感だ。これは本当に辛い。もしかしたら、この不安感を避けるために、他人の感情に同化して安心していたのかもしれない。

イタイ話でごめんなさいね。自分でもあまりにイタイから、後で削除するかも。


2004年2月5日

最近やけに目につくこと、というか、私が気にするようになったことがある。「それ」はあちこちで、いろんな名前で呼ばれている。「全か無か式思考」、「白黒思考」、「ゼロ=サム・モデル」、「二元論」、「二項対立」などなど。

これはたとえば、自分が持つ人間関係の多くを、自分とその人のどっちが上でどっちが下か、という観点で判断するとか、世間で起きた事件などを、どっちが絶対的に正しく、どっちが絶対的に間違っている、と決めつけるとか、ほんの小さな出来事ひとつで、自分はすごく偉い、あるいは自分は何の価値もない人間だ、と両極端な判断を下したりとか、イヤなことがあると他人はみんなこうだ、と拡大解釈したりとか、例を挙げればきりがない。

ちょっと前の日記で、仕事先で超バカな男に出くわしてすごいハラが立った、と書いた。そのことについて、今日はここで私の感情を整理させて下さい。今になって思い返してみるに、私が彼にムカついたのは、彼が典型的な「全か無か式思考」の人間だったからである。

彼はある失敗をしでかしたのだが、それは明らかに、彼の意志や努力次第で回避できたことであった。私には彼を責めるつもりは毛頭なく、ただ彼が自分でやったことの結果は彼自身が受け入れるだろう、と思っていた。ところが、彼はなぜか私のところへやってきて釈明を始めた。つまりは私になんとかしてくれ、というのである。

こうなる前に、私は彼に何度も何度も忠告していた。このままではよくない結果を招くだろうこと、それを避けるためにはこうした方がよい、と過干渉なくらい注意した。ところが彼は全く聞き入れようとはしなかった。それはまあいい。誰でもそういうことはある。ただ、自分で選んでそうなった結果なら、自分がその責任をとらなくてはならない。その上で、それではどうやってそれを打開するか、次からはどうすればいいのか、という話し合いに移行すればよかったのだが、彼は違ったのだった。

彼は、自分の失敗をひたすら否定し、自分の責任も否定した。それどころか、彼が失敗したのは私の監督不行届きによるものであると主張した。つまり、私が彼を十全にフォローしなかったのが悪い、というワケである。その言い分には仰天したしムカついたが、ただ彼の気持ちも理解できた。

彼は、自分が失敗した事実や自分の責任をとにかく否定する、という方法で、自分を必死に守ろうとしていた。内心では自分の失敗や責任を痛切に感じているからこそ、逆に必死になってそれらを否定していたのである。彼はその失敗を、まるで彼の人間としての全価値がどうであるかを左右する、重大問題であるかのように思いこんでいるようだった。自分の失敗を認めたら、そこで彼がダメな人間だ、ということが決定してしまうのである。

こういう人は多い。実は私もこういう思考方式からいまだに抜け出せないでいる一人である。すべてを「勝ちでなければ負け」、「上でなければ下」、「白でなければ黒」、「成功でなければ失敗」とみなしてしまう。すべてがまるで生きるか死ぬかの大問題だ。この世の中や人間、そんなに単純なモノじゃないらしい、と気づき始めたのはつい最近で、でも気づいたからといって、このクセが即座に治るわけでもない。だから彼の追いつめられた気持ちはよく分かった。

よく分かるが、でも彼が受け持たなければならない責任の領域に、私が踏み込むなんて絶対にイヤだ。私は怒りをこらえて、彼が責任を取るべき領域と、私が責任を取るべき領域との境目を説明した。私はあなたに必要に応じたアドバイスをする、という自分の責任はできるだけ果たしたつもりであり、あなたがそれを実行したかどうかはあなた自身の責任なのだ、と。

彼はぐっとつまったが、方法を変えて打って出た。「でも、僕はウソはついていません、本当に仕方がなかったんです、○○さん(私)は僕を信用しないんですか!!」と投げやりな口調で食ってかかってきたのである。彼は自分が責任を果たしたかどうかという問題を、私が他人を信用するかどうかという、私の人格の問題にすりかえようとした。おそらくは、今までも追いつめられると、こんなふうに相手の罪悪感を喚起する方法で対処してきたんだろう。

こうすることで、彼はいち早く自分が被害者の立場をキープし、相手を有無をいわさず加害者にしてしまうことができる。たとえばこの場合、私は自分が「他人を信頼する良い人間」であることを証明するために、逆にあれこれと弁明しなければならなくなる。彼は私が「もちろん、あなたを信用してますよ、それではこうしましょう・・・」などと言って、私が譲歩して彼の尻ぬぐいをしてやるといった流れを期待していたのである。すべてを相手のせいにし、そればかりか相手から利益を引き出すことのできる方法である。私がいちばん嫌いなやり方だった。これで私は完全にキレた。

でももちろん、大声で怒鳴りつけたりはしませんよ。私は彼に、これは私があなたを信用するかどうかといった、個人間の信頼関係の問題じゃないんですよ、と言い、彼の次の言葉を待った。すると、彼は「じゃあ、もういいです!」とふてくされたように言って去ってしまった。

こういうことがあったので、最近とみに「全か無か式思考」に敏感になっている。他人だけでなく、自分についても。自分の心や感情の動きに、あ、今「全か無か式思考」に陥っているな、とかね。でもやっぱり、自覚したところで改まるワケではないのよ。私は彼に怒ったけど、彼と同じ思考法や対処法を、私も身につけているからこそ余計に苛立ったんだと思う。なるほど、他人に対して感じる嫌悪の情は、自分に対する嫌悪の情が「投影」されたものであるという説はホントなのかも、と妙なことを納得する一方、でも私という人間はどうにもならない、と自分の無力さを痛感する。


2004年1月25日

今日は“On Your Toes”チケットの一般販売初日であった。よい席があればもう1枚だけ買おうと思い、近場のぴあに行って申し込んでみた。席はコンピュータで自動的に割り振られる、ということなので、発券してもらう前に席番を確認した。案外そう悪くはなさそうな席だったので購入した(ぴあの店舗によっては席番を選ぶことができる。事前にカウンターの人に聞いてみましょう)。もうすでに完売の日も出ているようだ。まあまあの出だしだろう。

サラ・ウィルドー(Sarah Wildor)がヴェラ役で“On Your Toes”日本公演に出演することが決まったのは、本当に嬉しい知らせだった。これでいっそう楽しみが増えたというものだ。彼女のベスト・シーン:(1)出だしのあの美しいアラベスク。;(2)ベッドの上にガニ股で仁王立ちになり、出ていくモロシンに枕を投げつけて大声で罵った後、くるりと後ろを向いて脚を閉じ、わざとらしくしなを作って、怯えるジュニアにニッコリと笑いかける。;(3)「王女ゼノビア」で踊りながらモロシンにさりげなく暴力を振るう。;(4)「十番街の殺人」で男たちに担ぎ上げられる踊り。

また今日は、クーパー君の「経歴」の続きを書くために、いくつかまた資料を検索して集めた。偶然というか、ちょうどウィルドーに関する資料を探さなければならなかった。まだざっと目を通しただけだが、クーパーとウィルドーは似ている。イギリスのバレエ界においてどう見なされているかが。この二人はともに、バレエのよさとは何なのか、バレエ・ダンサーとはどうあるべきなのか、という終わりのない議論を常に喚起する存在だった。

ただ、クーパーは彼自身が認めているように、バレエの世界からはみ出して、称賛と非難の両方にさらされる道を自分で選んだといえるが、ウィルドーは古き良きロイヤル・バレエの伝統を受け継ぎ、それを一途に踏み守ってきたダンサーだった。そんな彼女の踊りのスタイルが、当のロイヤル・バレエと一部のバレエ・ファンから拒まれることになった。

当時、ウィルドーはさぞ辛かったことだろうと思う。辛いなんてものではなかっただろう。今まで自分が信頼を寄せ、自分の世界のすべてだった存在から拒否されたのだから。彼女は、ロイヤル・バレエを退団してから2年が過ぎた去年夏、ようやくロイヤル・オペラ・ハウスに再び足を踏み入れた。“On Your Toes”ロンドン公演リハーサルのためであった。クーパーは彼女の様子を注意深く見守っていたようで、自分のサイトで特に触れている。「彼女は気丈に対処しているようだった。」

これから集めた資料をじっくり読んでいくが、いったい何が浮かんでくるのか、非常に興味深い。で、いきなり言い訳モードに入るけど、できあがりはもうちょっと待ってね〜ん。


2004年1月21日

今日、山手線の電車に乗ったら、車内に“On Your Toes”の広告が貼られているのを見つけた。中吊りじゃなくて天井の端っこの方だったが、まさか山手線の電車の中でクーパー君に会えるなんてねえ、時代は変わったものだわ、としみじみ(でもなかったけど)思った。

その広告に「オフィシャルHP」なるURLが書いてあった。ドメインが「oyt2004」だったので、おお、これは必見、と思い、帰宅後さっそくそこに飛んでみたら、・・・アラ?すでに見たことのあるような画面が。なんとそこはイープラスの“On Your Toes”ページだったのである。自動的にジャンプして繋がるようになってるらしい。なんだよ〜。

イープラで思い出したのと、あと先週発売の「Weeklyぴあ」でも見て呆れたのだが、“Nutcracker!”の宣伝、あれはちょっとやりすぎじゃないか。アダム・クーパーのファンとして思うのは、“Nutcracker!”はアダム・クーパーとは全然関係がナイのに、なぜあんなに「アダム・クーパー」、「ポスト・アダム・クーパー」、「ポスト・アダム」と連呼するのか。しかも超デカい字で。

いや、そりゃ事情は察しがつきますよ。要はアダム・クーパーの名前で客寄せをしたいんでしょう?もしアダム・クーパーの名前を出すことがそんなに役に立つのなら、クーパー君はマシュー・ボーンのおかげでブレイクしたのだし、名前を貸すくらいはして恩返しするべきだ。でもねえ、「ポスト」というのはいかがなものか(政治家みたい)。だってね、あえて表現をソフトにするけど、もともと比較できないものを、無理に比較して関連づけちゃっているでしょ?これはクーパー君ファンとしては、ちびっとフクザツな気持ちになるんですわ。

あと、“Nutcracker!”を観た一人として思うのは、「美しき男たち」とか、「イケメン」とか、「ハンサムガイ」とかいう言葉で、男性ダンサーのルックスのよさを強調するばかりで、女性ダンサーへの言及がなく(“Nutcracker!”の主人公はもちろん女性ダンサー)、ダンスやパフォーマンスのみどころや、作品についての紹介に至っては一言もない、というのはひどい。

“Nutcracker!”はね、表面的にはおちゃらけていて、時には悪ふざけの度が過ぎる、と思われかねないシーンもあるけれど、実は作品のテーマ自体はかなり深いんである。それにダンスもすごくいい。でも「ほ〜ら、イイ男がわんさかいますよ〜」という、あの明らかな女性客狙いの宣伝では、まず男性客は観に行く気がしないだろう。それにあの宣伝の印象が作品全体にかぶってしまって、最後まで誤解されっぱなしになる恐れだってある。

男性客じゃなくても、あの宣伝はね・・・女の私でもかなり引きます。これでバカ女どもはうまく引っかかるだろう、と思われている気がして(実際そう思われているんだろうけど)。何度も言うけど、この時期に“Nutcracker!”や“On Your Toes”に興味を持っている人(つまり積極的に宣伝や広告を見ている人)のほとんどは、去年の一時的な「白鳥」ブームが去ってからも、AMP(またNew Adventures)もしくはアダム・クーパーのファンを続けている人たちである。そういう筋金入りのファンたちに対して、このテの宣伝は却って逆効果だ。

「イケメン」は、公演が始まってから自然と話題になって客が集まるものであって(口コミ、そしてネットの威力はすごいよ)、今の段階で、あそこまで大っぴらに前面に押し出す必要は、別にないんじゃないのかな〜、と余計なお世話だが思ったりする。


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